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7分で分かるポーランドの歴史!建国から社会主義脱却までの千年を総括

ポーランドの歴史
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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この記事の内容
 ポーランドは2016年に洗礼1050周年を迎え、この出来事が国家として前進するきっかけとなりました。
2大王朝によって支えられたポーランド王国選挙王制によるポーランド・リトアニア共和国という大国の時代を経て凄まじい苦難を経験し、一度は120年以上にわたって地図から消された国。
 
 しかし、ポーランドが本当に弱い国だったら、国家として復活することはなかったでしょう。それでも今、こうして存在する理由はポーランド人の “国を守ろうという信念” にあるのです。
当記事では、そんなポーランドの興味深い歴史を7分でサクッと紹介します!
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本
この記事の目次
すべてのはじまり、ピャスト王朝
 10世紀頃 ミェシュコ1世が国の礎を築く
 1138年   君主の遺言で国がバラバラ…
 1241年   国家史上初の大敵はモンゴル
 14世紀頃 行政や司法を整備し、再統合へ

黄金期を築いたヤギェウォ王朝
 1386年   リトアニアと強力な関係を築く
 1410年   ドイツ騎士団を倒して勢力拡大
 16世紀頃 宗教改革では寛容な姿勢
 1569年   王朝支配の終わりに備える

戦いで休む間もない共和国時代
 1572年   ポーランド•リトアニア共和国誕生
 16世紀〜 スウェーデンやロシアと戦争続き
 1683年   オスマンを撃退し、欧州を救う
 18世紀頃 隣国からの内政干渉で疲弊しきる

ポーランド分割で国家消滅
 1772年   第一次ポーランド分割
 1793年   第二次ポーランド分割
 1795年   第三次ポーランド分割
 1807年   ナポレオンを支持するも状況悪化
 19世紀頃 ショパンなど著名人が次々と活躍

大戦後、ついに復活したポーランド
 1918年   念願の独立、第二共和国誕生
 1939年   第二次世界大戦とナチスの支配
 1945年   ソ連の圧政による苦難の時代
 1978年   ポーランド人初のローマ教皇選出
 1989年   民主化を目指し、東欧革命で一新

この記事のまとめ
洗礼1050年|古きカトリック信仰に見る中世ポーランドの歴史物語

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すべてのはじまり、ピャスト王朝

ピャスト
Bolesław I Chrobry
私はポーランド初代国王のボレスワフ1世 “勇敢王”。今日のポーランド国境は私が治めた領土と似通っているんじゃ。
ポーランドの歴史 10世紀

 

10世紀頃(日本 平安時代)
ミェシュコ1世が国の礎を築く

965年、現ポーランド周辺の有力な首長であったピャスト家のミェシュコ1世がボヘミア王の娘ドブラヴァと結婚。翌年、ミェシュコはキリスト教に改宗し、他キリスト教国家との外交がはじまった。初代国王は息子のボレスワフ1世(1025年戴冠)。

1138年
君主の遺言で国がバラバラ…

ボレスワフ3世の遺言により、ポーランドは5つの領土を構成する国家となる。その中でも首都のあるクラクフ公国を制する者がポーランドの最高権威者となった。このため後継者たちが権力争いをはじめ、200年にわたるポーランドの分裂時代が幕を開ける。

1241年(日本 鎌倉時代)
国家史上初の大敵はモンゴル

13世紀、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル軍がロシアを支配し、ポーランドに侵攻。数々の街が壊滅の危機に瀕し、ピャスト家の有力者やポーランド軍はモンゴル軍との戦いによって多く命を落とした。一方、戦術は向上し、国の防御力がアップ。

14世紀頃(日本 室町時代)
行政や司法を整備し、再統合へ

国王ヴワディスワフ1世とカジミエシュ3世の時世、武力より会話で解決する姿勢が国家を安定に導く。王国基本法が制定され、国内初の大学(現ヤギェウォ大学)も誕生。移民やユダヤ人を積極的に受け入れ、50以上もの城が築かれ、大国へと成長していった。

1370年
国王急死、ピャストの時代は終幕

 

黄金期を築いたヤギェウォ王朝

ヤギェウォ王朝
Jadwiga Andegaweńska
私は10歳でポーランド初の女性国王となったヤドヴィガよ。リトアニアと合同を結んで、ポーランドをより強化したの。

 

1386年(日本 室町時代)
リトアニアと強力な関係を築く

リトアニア大公ヤギェウォとヤドヴィガが合同を結び、結婚。これによって異教徒であったヤギェウォはポーランド国王として即位すると同時にキリスト教に改宗する。また、これまでに奪ったポーランド領土を返還し、キリスト教徒の捕虜も釈放された。

1410年
ドイツ騎士団を倒して勢力拡大

この頃、ドイツ騎士団は不当に領土拡大を狙い、ポーランドとリトアニアにとって最大の敵だった。両国は同君連合を掲げ、グルンヴァルトの戦いにてドイツ騎士団をともに攻めて見事勝利。ドイツ騎士団は衰退し、ポーランドの封臣となって世俗化した。

16世紀頃
宗教改革では寛容な姿勢

ルターによる宗教改革の影響を受け、ヨーロッパ各地でキリスト教同士が血で血を洗うような争いを繰り返していた。一方、ポーランドは13世紀から根付く宗教における自由の考えもあり、プロテスタントや他宗教を尊重し、宗派の平等と寛容を示した。

1569年
王朝支配の終わりに備える

ヤギェウォ王朝最後の国王ジグムント2世アウグストには王位を継ぐべき息子がおらず、自身の死後、ポーランドとリトアニアの関係が弱体化するであろうことを恐れた。結果、合同を結んで両国を統合し、今後は両国共通の選挙で君主を選ぶことにする。

1572年
ヤギェウォ王朝断絶、新国家へ
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戦いで休む間もない共和国時代

共和国時代
Zygmunt III Waza
私は、ヤギェウォ家出身の母とスウェーデン国王の父を持つジグムント3世ヴァザだ。そして私は両国の国王でもあった。

 

1572年(日本 室町時代最後の年)
ポーランド・リトアニア共和国誕生

国王自由選挙によって国王を決める新たな国家、ポーランド・リトアニア共和国が欧州最強の国として現る。共和国時代、12人の国王が選出された。最大の領土を得たのは1637年頃であり、当時の面積は100万㎢目前(現在の領土の3倍以上)だった。

16世紀〜(日本 安土桃山時代〜)
スウェーデンやロシアと戦争続き

18世紀まで共和国とスウェーデンは幾度も戦争を繰り返し、モスクワ国家が無政府状態に陥ったのを機にロシアとも戦争開始。ロシア征服計画はいいところまでいった。ポーランドとスウェーデンは共通の国王を持っていたが、関係は悪化の一途をたどった。

1683年(日本 江戸時代)
オスマンを撃退し、欧州を救う

以前よりオスマンには苦戦していたが、国王ヤン3世ソビエスキの時世、軍事技術が好転。その活躍ぶりにハプスブルクや教皇は共和国に支援を願う。ソビエスキは欧州支配を狙うオスマンを打ち破り(第二次ウィーン包囲)、キリスト教の英雄となった。

18世紀頃
隣国からの内政干渉で疲弊しきる

一時、ハプスブルクやモスクワ国家を脅かすほどの支配力だったが、度重なる戦争で兵士や財源を消耗してしまう。近隣諸国は弱体化する共和国の内政に介入。18世紀後半はロシアの財政援助に依存していたため、次第にロシアが共和国を操るようになる。

1772年〜
改革失敗、ポーランドが消えゆく
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ポーランド分割で国家消滅

ポーランド分割
Tadeusz Kościuszko
私はポーランドの英雄とも言われる軍人、タデウシュ・コシチューシュコ。我々は、全民族の自由のために戦ったのだ。

 

1772年(日本 江戸時代)
第一次ポーランド分割

共和国最後の国王スタニスワフ・アウグストは諸改革に取り組み、軍事教育の一新を図って国を建て直そうとする。しかしかえってロシアの警戒を招き、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国はポーランドを分割。国土の約1/4と人口の35%を失った。

1793年
第二次ポーランド分割

国王は国政改革を実施し、ヨーロッパ初の憲法を制定。選挙王制を廃止し、ザクセン家の世襲制に改めたことでポーランド王国に戻った。一方でロシアは新憲法を拒み、またもや内政干渉。ロシアとの戦争に負け、領土をさらに大きく失う結果となる。

1795年
第三次ポーランド分割

軍人のタデウシュ・コシチューシュコや国王の甥ユゼフ・ポニャトフスキらが中心となってロシアに対抗。ロシアはポーランドの反乱を鎮圧すべく、プロイセンとオーストリアにポーランド全領土を分けようと提案した。これを以て、ポーランドは完全に消滅。

1807年
ナポレオンを支持するも状況悪化

消滅後もポーランドの軍隊や貴族は国家の復活を目指す。ナポレオンの指揮のもと戦い、やがてフランスの傀儡かいらい国家であるワルシャワ公国が誕生。ポーランド人はナポレオンを絶大に支持するも1815年、ナポレオン失脚。ワルシャワ公国は解体された。

19世紀頃(日本 江戸〜明治時代)
ショパンなど著名人が次々と活躍

以降も蜂起ほうきを繰り返しては失敗し、数百人もの貴族が絞首刑、十数万人がシベリア流刑となった。ビスマルクによるポーランド人抑圧政策が始まる中、愛国心が強い者たちは民族意識や信仰心をより高め、亡き祖国の歴史を守ろうと様々な分野で活躍した。
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音楽家  フリデリック・ショパン
詩人   アダム・ミツキェヴィッチ
物理学者 マリ・キュリー
画家   ヤン・マテイコらなど

20世紀頃(日本 明治時代)
諦めることなく、独立の機会を模索
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大戦後、ついに復活したポーランド

Józef Piłsudski
私は独立後のポーランド第二共和国初代国家元首、ユゼフ・ピウスツキだ。日露戦争中の日本を訪れたこともあるぞ。

 

1918年(日本 大正時代)
念願の独立、第二共和国誕生

19世紀末頃、社会党や民主党などポーランド人主体の政党が活発になる。その中には独立後のポーランド第二共和国の指導者、ユゼフ・ピウスツキもいた。そして第一次世界大戦でドイツが負けた結果、ベルサイユ平和条約が結ばれ、ポーランドは独立する。

1939年(日本 昭和時代)
第二次世界大戦とナチスの支配

独立から20年後、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦勃発。間もなくソ連が侵攻し、ポーランドはドイツとソ連に占領される。各地にユダヤ人隔離区域のゲットーや収容所が建設され、やがてナチスによるユダヤ人ホロコーストの中心地となった。

1945年
ソ連の圧政による苦難の時代

第二次世界大戦ではポーランド市民のおよそ17%が犠牲となり、人口比では世界最高の死亡率となった。戦後の縮小されたポーランドはソ連の衛星国となり、今度は自由を著しく制限する共産主義に支配される。多くがソ連に抵抗しては逮捕され、命を落とした。

1978年
ポーランド人初のローマ教皇選出

共産主義政権におけるポーランドでは、国民の9割以上が信仰するカトリックも抑圧の対象となった。そんな中、ヨハネ・パウロ2世がポーランド人初のローマ教皇として選出され、祖国に勇気と希望を与える。教皇の存在は民主化革命を大きく促した。

1989年
民主化を目指し、東欧革命で一新

80年代後半にインフレや食料不足といった問題が重なり、一部労働者がストライキやデモを行う。やがて社会主義国初の労働者組合「連帯」が発足し、他国も影響を受けながら民主化運動はますます激化。1989年の円卓会議を経て、ソ連の支配から脱却した。

21世紀〜
EUに加盟し、経済力も年々向上
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ポーランド経済

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この記事のまとめ
アイコン 7分程度で気軽に読めるよう、重要な歴史イベントをザックリまとめました。ポーランドは長き苦難に耐え忍んできた国、というイメージを持つ人が多いですが、実はかなりの強国だったのがお分かりいただけたのではないでしょうか。そして100年以上も存在しなかったポーランドが独立できたのは、まさに、祖国を守り抜きたいという思いが強かったからにほかなりません。特に、ポーランド分割から近代の歴史に見られる、ポーランド人の民族意識と団結力の深さには脱帽です…。
 
 ポーランドへお越しの際はぜひ、歴史的スポットもじっくり観光してください。古都クラクフでは、カジミエシュ3世、ヤドヴィガ、ジグムント2世、ヤン3世ソビエスキほか多数の国王や英雄にまつわる場所も残っており、旧王宮に隣接するヴァヴェル大聖堂では美しい墓地聖堂を見ることもできます。もっと詳しく知りたい、おもしろい話を聞いてみたい方はクラクフ公認ガイドである私に直接ご相談ください♪

 

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16件のコメント

大滝史郎 より:

大変勉強になりました。ありがとうございました。

Ayaka より:

私も書きながら頭の整理に役立ちました!たまに自分でも読み返しています。

まどか より:

ポーランドに旅行に行こうと考えていたところなので、とても助かりました!ありがとうございます。

Ayaka より:

まどかさん

はじめまして。
ブログを運営している綾香です。
コメントありがとうございます。

このブログを通して、一人でも多くの方がポーランド旅行を楽しまれることを願っています!
今後ともどうぞよろしくお願いします。

秋山幸夫 より:

ポーランド出身のMoonlight という好きなバンドの曲に、historia do zapomnieniaというのがあって、どういう意味なんだろうと調べているうちに、こちらのサイトにたどり着きました。ポーランドの歴史、大変ためになりました。ありがとうございました。また訪れます!

Ayaka より:

こんにちは、管理人の綾香です。
すっかりコメントの承認が遅くなり申し訳ありません。正月休暇で昨日、ポーランドに戻ってきました。

秋山さんは音楽がきっかけでポーランドに興味を持たれたのですね (^ ^)
最近こちらの記事がまた人気が出ているのですが、一昨日も昨日もページビューでナンバーワンでした!
歴史的背景を理解してから聴くと、ちがったメッセージが見えてくるのではないでしょうか。
ほかの記事もまた読んでいただけると嬉しいです。

秋山幸夫 より:

承認、ありがとうございます。イスラエル・ヨルダン旅行に行かれていたのは記事で読んでました。また、ポーランドの歴史を勉強するためにこちらのサイトを訪れさせていただきますね。

Kazu.K より:

聖マリア聖堂 のなかで、読み入ってしまいました。クラクフに赴任して3年、初めてポーランドの歴史を日本語で解りやすく説明してもらいました。残りの時間を有意義に過ごしたいと思います。ありがとうございます

美咲 より:

たいへん勉強になりました。わかりやすかったです。

Ayaka より:

美咲さん

そう仰っていただけで何よりです。
これを機会にポーランドについてさらに関心を持っていただければ嬉しいです。

さち より:

先週、ポーランド旅行に行き、復習しているところでこの記事を読ませて頂きました(*^_^*)とてもわかりやすかったですし、またポーランドへ訪れたいなぁという思いが増しました!他の記事も読ませていただきます。
ありがとうございました!!

分かりやすいと仰っていただき嬉しいです!
その国の背景や歴史を知ると、そこで見る景色もまた変わってきますよね (^ ^)
私もガイドの勉強をするとき歴史にどんどんハマってしまい、元ポーランド領だった近隣諸国の歴史書も読みあさっています。

泉 庄右衛門 より:

ショパンの事を調べるのに、ポーランドの歴史が知りたくてこのサイトにたどり着きましたが、大変勉強になりました。このポーランド人の独立の精神がショパンの音楽の基本になっているんでしょうね。有難うございました。

コメントありがとうございます。
ショパンの曲にはポーランドへの愛国心を感じられものが多くありますが、当時のポーランドの歴史背景を知っていると聴こえ方が変わりそうですね。
ショパン以外にも著名なピアニストはいますが、やはり、19世紀前後に活躍した人たちが目立ちます。
機会がありましたら、カロル・シマノフスキ(Karol Szymanowski)やイグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)の演奏もぜひ聴いてみてください。

さとこ より:

ポーランドには二度ほど行きましたが、「いつまでもショパン」を読み、歴史や国民性を勉強したくなりました。わかりやすかったです!

ありがとうございます。参考になったようで嬉しいです。
歴史を知ると、点と点が線でつながったり、見えてくることがたくさんありますよね!今はブログ全記事をリニューアル中でして、他の歴史記事も書き直す予定です。これからもぜひご愛読ください。

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