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ポーランド1千年の歴史を映画にしたら涙なしでは見れないかもしれません。
昔強かった国ほど今弱い位置に立っていると思うのは気のせいでしょうか。ポーランドもそんな国の1つです。理不尽な目に合いながらも力強く生き延びてきたポーランドのこれまでの歴史は
きっと皆さんの
想像以上に凄まじい
もの。日本の歴史が2千年であるのと比較すれば1千年の歴史は短い方かもしれません。でもそこにある物語を知ったとき、他国から侵略されたり地図から消されながらも国を力強く守ってきたポーランド人たちの勇ましさに感動しました。
そこでポーランドの歴史を皆さんにシェアしようと思ったのですが、長くなるので歴史は時代の境目ごとに分けて書くことにします。この記事では、ポーランド初期のみをまとめました。
◆ポーランドの歴史◆
★ポーランド初期 966年
ピャスト朝 966年〜1370年
プシェミスル朝
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・
リトアニア共和国 1569年〜1795年
サス朝 1697年〜1763年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ワルシャワ公国 1807年〜1813年
ポーランド立憲王国 1815年〜1867年
ポーランド共和国 1918年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜
10世紀 ポーランド王国の基礎が形成される

966年、ポラン族(現在のポーランドに住んでいた西スラブ人集団。ポランは平野の人という意味)の首長であったミェシュコ1世によって、ポーランドの基礎が築き上げられました。
ローマ皇帝、オットー1世から公を授かった彼はまだ正式な王ではありませんでしたが、創始者としての十分な役割を果たし、今日の10ズウォティ紙幣表側の肖像画となっています。
また彼は同年、ボヘミア(チェコ公国)王の娘ドブラヴァと結婚したのをきっかけにローマカトリックの洗礼を授かりました。ポーランドの敬虔なカトリック信仰は、この時から現代まで代々引き継がれてきたものです。

おわり
え?と思った方には残念ですが、ポーランドのごく初期については以上のことくらいしか分かっていません。
350年頃のヤマト王権統一や645年の大化の改新など日本歴史は古代でも多くの記録が残っているため、「ポーランドって若い国なんだな」と思った方もいるのではないでしょうか。
日本の歴史は紀元前11世紀頃から遡ることができるので、それに比べるとポーランドの歴史はかなり浅いです。ちなみにポーランドの基礎が出来た頃、日本は平安時代。清少納言や紫式部が活躍する50年前あたりでした。
と、ここで終わってしまうのもなんだかちょっと物足りないので、このポーランド初期について私が頭に浮かべた疑問とその答えを紹介しましょう。

A. つい最近まで国ではなかったところの長が「これは私の国だ!」と突然言ったところで、周りの権力者は誰も信じてくれません。また、国として開拓されていない場所に住む者たちは野蛮人のような見方をされていました。
そこでまずはポーランドという場所と自分の権力を他の国に認めてもらう必要があったのです。この方策としてミェシュコ1世は、既に公国として他国に認められており、かつ神聖ローマ帝国(初期から現代に至るまでポーランドの悩みのタネとなる現在のドイツ…)と結びつきのあったボヘミ王の娘、ドブラヴァを妻として迎え、自身は権力者であることを示しました。この神聖ローマ帝国という国は当時のヨーロッパではかなりの勢力を持っており、この国に認めてもらい、かつ見方につけないことには領土を征服されてしまう恐れがあったのです。味方であるボヘミア王の娘の夫が持つ領土となれば、さすがの神聖ローマ帝国にも簡単に手出しはできません。

A. 神聖ローマ帝国は当時、カトリックではない国に次々と戦争を仕掛け、支配していました。この時代のヨーロッパは何かにつけてキリスト教。ローマ教皇がヨーロッパを支配していたわけではありませんが、大事なことを決めたり認めたりする権限はカトリック教会のトップにもあり、カトリックではない国を征服することは合法とされていたのです。
しかし「カトリックではないから征服する」というのはあくまでも口実であり、神聖ローマ帝国の1番の狙いは領土を奪い取ることにありました。そして、その危険を感じたミェシュコ1世は、ポーランドのリーダーである自身が洗礼を受けることによってポーランドをカトリックの国とし、それを理由に攻められないようにしたのです。ボヘミア王の娘と結婚したのは洗礼を授かるきっかけを作るためでもありました。つまり、ミェシュコ1世が洗礼を授かったのは、カトリックにならなければ国を守れないと考えた彼による政治的戦略だったのです。
ちなみに日本語ウィキペディアには「ミェシュコ1世はギリシャ正教からローマカトリックに改宗した」とありますが、これは大間違いです。カトリックが浸透する前のポーランドはポーランド独自の自然宗教を信仰していました。

A.それ以前は、数グループのスラブ人集団が現在のポーランド地域一帯に住んでいました。特に部族同士の争いなどもなく国をつくろうという動きはありませんでしたが、ミェシュコ1世の登場によって初めて流れが変わったのです。
しかし、彼はただ部族や原住民らと争って地位を得るためだけにポーランド王国の基礎を築いたのではありません。国をつくらないと既に国を形成していた者たち(=神聖ローマ帝国:962年のオットー大帝により建国)に領土を奪われそうになっていたからです。そこで立ち上がった者が、数あるスラブ人集団の中でも力の強かった現代ポーランド人の先祖、ポラン族のミェシュコ1世。彼が最初に統一した場所は現在、ポズナンを県都とするヴィエルコポルスカ(広大なるポーランド)県となっています。
.ほかの人種と同じように白人は民族ごとに細かく分けることができます。大きなグループでいうと、ラテン系(南欧)、ゲルマン系(西欧や北欧)、ケルト系(中欧)、そしてスラブ系(東欧)。その中でもスラブ人はスラブ語系の言語を話す民族を指し、さらに東スラブ人(ロシア人やウクライナ人)、南スラブ人(セルビア人やスロベニア人)、最後にポーランド人の属する西スラブ人に分けられます。
◆この時代の主な出来事
966年 ミェシュコ1世によってポーランド王国の基礎がつくりあげられる
ミェシュコ1世が現れる前後の詳細の歴史は、資料が非常に少ないこともあってあまり分かっていません。国ではなかったので他国の文献に残されることがなかったんだと思います。ミェシュコ1世からなる王家はピャスト家とよばれ、これは文献で遡ることのできるピャスト家の1番最初がピャスト(ミェシュコ1世の高祖父)だったことに由来します。
次の記事ではポーランド王国の誕生からピャスト朝の終わりまでをまとめました。どうぞ続きもお読みください。



勉強になります。
高校生の頃は世界史が苦手でしたが、狭く深く学んでいくとうやはり興味深いです!