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前回のつづきです。
幻聴でセミの鳴き声が聞こえてくるくらい、とっても暑かったこの日。でも、観光はまだまだ始まったばかりです。
カジミエシュ・ドルヌィの歴史

青い空によく映えています
ピャスト家最後の国王、カジミエシュ3世によって建設されたこのお城。
カジミエシュ3世といえば、国内最古の大学、ヤギェウォ大学の創立者でもあり、ヨーロッパ中から迫害されたユダヤ人を守るための町を建設した者でもあり(現在のクラクフ・カジミエシュ地区)、また鷲ノ巣古城と呼ばれる25の古城を築いた者でもあります。
カジミエシュ3世の愛称はカジミエシュ大王ですが、成し遂げた偉行を見ても分かるよう、まさにその大王の名に相応しい国王だったのですね。

古城から望む景色とヴィスワ川
さて、ここからは12世紀には既に存在していたカジミエシュ・ドルヌィの歴史について説明しましょう。
1170年、カジミエシュ2世(3世じゃない)という当時の国王がこの一帯に幾つかの村を建設し、それらがやがてカジミエシュと呼ばれるようになったのが、現在のカジミエシュ・ドルヌィ。
これらの村は辺りに住むカトリック修道女達に与えられたもので、彼女達がカジミエシュと呼び始めたんだとか。
カジミエシュ村はバルト海に伸びるヴィスワ川に面しており、そこでの交易や川を渡るための通行税を導入したことで、一気に活気のある村と化します。

photo by flickr Illya Kondratyuk
地名としてのカジミエシュは1249年に書かれた文献に見ることができ、その後にクラクフのカジミエシュと混同しないようドルヌィが付け加えれました。
ポーランドのガイドブックを読んだり、実際にクラクフへ行ったことのある方は、クラクフ旧市街の近くにあるカジミエシュ地区をご存知でしょう。この地区は今でこそ、クラクフ市に編入されカジミエシュ地区と呼ばれていますが、1800年まではクラクフとは別の町でクラクフ旧市街と同じように市壁に囲まれた町でした。
それから時が経ち、村の存在がちょっと忘れかけられていた14世紀前半。
国王カジミエシュ3世はカジミエシュ・ドルヌィに目を付け、この地域がポーランド王国の経済成長を担う場所として発展する可能性を見出します。そして、村から町へと変えることにしました。

カジミエシュ・ドルヌィの中央広場
それからは石で築かれた要塞や古城が建設され、数世紀に渡って次々と新たな道や中央広場、教会が完成。この繁栄は16世紀後半まで続き、カジミエシュ3世の狙った通りに経済発展の著しい町として名を馳せるようになりました。
しかし1655年、スウェーデンがポーランドを侵攻(大洪水時代)。
彼らはポーランドの各都市、各農村の破壊と略奪を行い、1656年にはカジミエシュ・ドルヌィまでをも破壊し、町の人口は一気に減少します。
国王ヤン3世ソビエスキは、この状況を改善しようとアルメニア人やユダヤ人を移住させ、かつての繁栄を取り戻そうとしますが、失敗に終わりました。
やがてはヴィスワ川の交易も途絶え、さらに18世紀のポーランド分割に影響されたカジミエシュ・ドルヌィはどんどん衰退。この時点で町ではなくなり、小さな村に逆戻りしてしまいます。

photo by flickr Poland MFA
しかし19世紀、ついに転機が…。
ルブリンに住む大富豪がヴィスワ川を望む美しいカジミエシュ・ドルヌィに注目し、温泉や別荘を建設し始めたのです。そして保養地として注目され、富裕層達が次々と訪れるようになりました。
また、1923年にカジミエシュ・ドルヌィを訪れたワルシャワ美術学校の教授、タデウシュ・プルシュコフスキは、村の景色や風景にあらゆる芸術を見つけ出し、学生と共にカジミエシュ・ドルヌィを村から再び町へと復興させます。
こうして年々観光客が多く訪れるようになり、今ではポーランド人だけではなく様々な国から来た観光客で賑わう町となりました。私も書いている内にまた行きたい衝動に駆られています!
眩しいくらい白い古城

ヴィスワ川が瀬戸内海に見える
それでは、古城見学開始。
と言っても、この古城はすごく小さいです。中世に建てられた城にしては保存状態が良いので立派に見えますが、実際に内部に入れるような空間は展示室の2ヵ所しかなく、外観見学がメイン。
城は石灰岩で築かれており、そのため眩しいほど白いです。転がる石も白い。
ちなみに私の地元が誇る世界遺産、姫路城の石垣も石灰岩を用いており、白鷺城と呼ばれています(関係ない?)。

14世紀、建設当初の古城
当時の城は、最も高いところでは7mもの高さのある城壁に囲まれていました。一部は今でも見ることができます。
また14世紀当初はゴシック様式でしたが、ここまで遺跡化していると何様式だか分かりません。後々ルネッサンスになったそうですが、その面影はなし。
窓の形だけなら遺跡でもゴシック様式かそうでないかは分かるものの、ルネッサンス様式からは飾りや窓枠が残っていないと判別が難しいのです。
ゴシック様式は窓の形が尖頭アーチ型なので、簡単に区別ができますね。

かつてはこんな構造だった
チケット売り場から入城して、まず足を踏み入れるのは、広々とした中庭。
南西と南の塔(南の塔は写真には写っていませんが)からはヴィスワ川を見ることができますが、現在は南の塔しか上ることはできません。ちなみに、南西の塔には礼拝室があったそうです。
写真の右手前には小さな部屋の入り口があります。そこにはカジミエシュ3世にまつわる漫画や16世紀の女性の衣装、発掘品の展示がありました。

夫曰く、くだらない伝説(笑)
城を建設するためにカジミエシュ・ドルヌィに訪れたカジミエシュ3世。
彼は、そこで出会った平民の美しい女性に一目惚れをしてしまいます。彼女はユダヤ人でした。美しい彼女を城に住まわすことにしたカジミエシュ3世ですが、彼の女使い達は当然のように嫉妬し、嫌がらせをします。それに気付いたカジミエシュ3世は彼女のための城(か何か)を築き、そこで密会するのでした。
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既に妻がいたカジミエシュ3世に汚名を着せるような伝説です。
それが仮に事実だったとしても、ここで載せてほしくなかった!国王でも不倫はやっぱりしちゃダメですよね〜。

16世紀中頃の典型的な女性の服装
16世紀、こんなドレスを着た女性達がこの城を歩いていたそうです。
なんだか思ったより貧相ですが、白いベールを被っているところを見ると修道女のようにも見えませんか。でも、やはり宗教も影響していると思います。

数々の鉄骨で支えられていました
あくまで屋外見学ですが、居住スペースにも入ることができます。
城についてはむしろ分からない部分の方が多いようで、推測で書かれたような説明文も結構ありました。私からすると、それくらい謎に包まれている方がミステリアスで魅力的だと思います!
次は見張り塔に向かいます

暑さのせいで遥か彼方に見える
繰り返しますが、この日の暑さは尋常ではなかったです。ピオトルも含め、みんなサングラスをかけていました。
城見学の後はすっかり干からび、「もう行かなくてもいいから、アイス食べようよ」と思えるほど塔が遠くにあるように見えます。でもサッと歩けば、10分以内には塔の内部にいました。

塔の前は階段がずっと続いています
外が暑すぎるので、塔の階段を上りながら涼んで体力回復。足は動いているのに休憩した気分になるとは、不思議です。
さて、上の写真から見ても分かるように、塔は低く19mしかありません。
ただ、城よりもさらにもっと小高い丘の上にあるので、結局すごい高い塔に上ったような気分になります。
てっぺんからの景色がこちら。

木の存在感の方がすごかった
バスターミナルや、先ほどまでいた城がとても遠くあるように感じられます。
塔は要塞に建てられたもので、城よりも先に作られた部分。こんなに見晴らしの良い場所にあれば、敵が来たらすぐ分かりますよね。結構、登ったなぁ…。
で、面白いのがコレ。

旗でメッセージを送っていた
左上は「来い」、右上は「攻撃」、左下は「来るな」、右下は「降参」。中世の人々が旗で表したメッセージです。
今ではすっかり観光地化してしまっている塔ですが、よくよく考えれば、敵から身を守ったり攻撃するための場所だったんですよね。うっかり、塔の本来の機能を忘れるところでした。
次の記事では、丘を下りて町の観光のようすを紹介します。これでカジミエシュ・ドルヌィの旅行記事は最終回!
Bardzo gorąco
Bardzo gorąco(バルゾ ゴロンツォ)は「とても暑い」という意味。Bardzo は「とても」という意味の副詞です。
これが過去形になると、Bardzo gorąco było(〜ビオ)となりますが、気を付けたいのが było の発音。日本人が文字通りに「ビオ」と言ってしまうと biło に聞こえます。y はウとエの真ん中の音なので、それを意識して「ビオ」と発音しましょう。y の発音の仕方はこちらのページをご覧ください。
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