これからポーランドへ行く方が知っておきたい情報

第2回 ポーランドの京都 クラクフってどんな街?

クラクフの中央広場
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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こちらは、個人的に観光客の皆さんにお勧めしたいポーランドの魅力的な都市を紹介していくコーナーです。

最終更新日:2019年8月17日

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第2回は、世界遺産の街クラクフ

1番最初に世界遺産リストに登録された街でもあるクラクフは、ポーランドで人気ナンバーワンの観光都市。

中世からヨーロッパの中心として非常に栄え、その当時のままの美しい姿は年間数十万人にも及ぶ観光客を魅了しています。ポーランドに来たならクラクフだけは絶対外せません。

旅行なら3泊はしたいところです。
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Kraków
Kraków

 

このページの目次
1. クラクフの位置
2. クラクフの歴史
3. どんな街?
4. 市内の交通・料金
5. 市内へのアクセス
6. 主な観光スポット
7. クラクフの関連記事

 

クラクフの位置

クラクフ/Kraków は南ポーランドに位置するマウォポルスカ県/Województwo małopolskie の県都。

マウォポルスカとは小さなポーランドという意味で、大きなポーランドと呼ばれる県(ヴィエルコポルスカ県)もあります。この大小はイタリア、ローマへの距離が大きいか小さいか(長いか短いか)を意味するそう。

クラクフはワルシャワから南西に約250キロ離れた場所に位置し、列車で最短2時間20分の移動距離となります。

IMG_6200

 

クラクフの歴史

ここに載せると記事が長くなってしまうので下の関連記事にまとめました。

記事を取得できませんでした。記事IDをご確認ください。

 

どんな街?

この歴史からも分かるように、クラクフは苦難を乗り越えながらも古くから栄えてきた街。当時の豊かさを象徴するような場所が現在も多く残っています。

photo: flickr by Lukes_photos
photo: flickr by Lukes_photos

マウォポルスカ県の2012年の調査によると、クラクフを訪れた895万人の訪問者のうち77%が観光客を占めていた(ポーランド人も含む)そうで、この数値は年々上昇傾向にあります。

それにしてもクラクフどころかポーランドという国自体、日本ではあまり聞かれません。現状、観光客の半数以上がヨーロッパの国々から来ています。

“クラクフはヨーロッパいち美しい観光都市” という旅行会社のアンケート結果があるほどだというのに、日本人にあまり知られていないのは残念です。
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photo: flickr by Brian Snelson
photo: flickr by Brian Snelson

クラクフの何が魅力的なのか。

それは間違いなく、中世のままの美しい街並みでしょう。街を歩いているだけでも楽しくなるくらい、ゴシックからルネサンス、バロック様式の様々な建築物があり、中心部から少し離れたユダヤ人地区(カジミェシュ)ではまた変わった一面も見ることができます。

外からの景観だけではなく、街の至るところにあるカトリック教会の内部も息を呑むほどの美しさ。ポーランド人もクラクフの教会が1番美しいと言います。

クラクフの聖マリア教会
クラクフの聖マリア教会

ヴィエリチカ岩塩坑、アウシュヴィッツ強制収容所、カルヴァリア・ゼブジトフスカという3つの世界遺産も周辺にあるので、滞在中にはこれらの場所へ日帰りで訪れるのもいいでしょう。

 

市内の交通・料金

市内の移動手は主にトラムとバスがあり、観光の場合はトラムと徒歩を合わせて移動するのが一般的です。

photo: flickr by Michał
photo: flickr by Michał
有効時間 料金(PLN)
20分間有効 3.40
50分間有効 4.60
90分間有効
24時間乗り放題 20
48時間乗り放題 28
72時間乗り放題 42

※2019年8月現在
※バスとトラムのチケットは共通

参考: クラクフインフォ

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クラクフカードという観光用パスを利用すると市内の公共交通機関と多くの観光施設入場料が無料になります。

 

市内へのアクセス

空港:市街から約17キロ離れた場所に、国内2番目の規模のクラクフ・バリツェ空港があります。各ヨーロッパ・ポーランドの都市とクラクフの間を結ぶ路線が多く就航。空港から市街への行き方は下記記事をご覧ください。

クラクフ空港から市内へ列車での行き方
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クラクフ中央駅 Kraków Główny
クラクフ中央駅 Kraków Główny

列車:平日は約35本のワルシャワからクラクフを結ぶ直行列車があります。国内最速列車EIP利用で最短2時間20分、平均的な移動時間は2時間45分。

ワルシャワの駅

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バス
:長距離移動は列車の利用が一般的ですが、ポルスキバスやルクスエクスプレスなどを利用してクラクフへ来ることもできます。また、クラクフから100キロ前後の距離にある街からであればプライベートバスやミニバスも便利です。

※2015年12月現在

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主な観光スポット

クラクフ中央駅またはクラクフ中央バスターミナルからクラクフ旧市街までは徒歩約15分程度。駅から徒歩で行く場合、多くの観光客はフロリアニスカ通り/Ulica Floriańska を通り、中央広場(リネック)へ行きます。

この通りを真っ直ぐ進んで行くと中央に見えてくるのは背が高くて長細い、聖マリア教会(Kościół Najświętszej Panny Marii)。この教会の前にでて、右手に広がる巨大なスクエアが中央広場です。

※クラクフの観光ガイドをしています。詳しくは下の記事をご覧ください。

旅行
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Ulica Floriańska
フロリアニスカ通り

中央広場(rynek)
ページ1番上にある写真は中央広場から撮りました。中世そのままの面影が残ったこの広場、総面積はなんとヨーロッパ最大規模の約4万平方メートルだそうです。真ん中には織物会館(sukiennice:スキエヌニツェ)があり、お土産を購入する定番の場所として毎日多くの観光客で賑わっています。お洒落なカフェはもちろん、中央広場内には大きな地下博物館もあるのでこの周辺だけでも半日以上は過ごせるかもしれません。

聖マリア教会Kościół
Najświętszej Panny Marii
HP
ポーランドで最も美しい教会だと言われています。ポーランドの教会としては珍しく入場料を設けていますが、これは教会の修繕費用に充てられるもの。現在の聖マリア教会は14世紀に建て直されましたが、確かにあれ程の規模の教会と豪華な装飾を維持するのには相当なお金がかかると思います。また名物として知られるのが1時間に1回鳴るトランペットの音色。これは過去のモンゴル侵攻時、危険を知らせるために教会からラッパを吹いた者が吹き終わらない内に矢で殺されてしまったことに由来し、それを偲んで当時から奏でられています。

ヴァヴェル城
(Zamek Królewski na Wawelu)HP
ページ上部2番目の写真がヴァヴェル城です。こちらも聖マリア教会と同じく14世紀に建て直されたもの。ヨーロッパのお城といわれて日本人がよく想像するのは、迫力ある巨大な石造りのお城かもしれません。しかしヴァヴェル城はそんなイメージとはかけ離れた外見をしています。長い時を経て改修を積み重ねてきたこのお城は、ゴシック、ルネサンス、バロックなどヨーロッパを代表する建築様式を融合させた興味深い姿。そんな広大なヴァヴェル城のすべてを見ようとすると半日以上はかかるかもしれません。

ヴァヴェル城
ヴァヴェル城
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地下博物館(Podziemia rynk)HP
この博物館は中央広場の項目でも書いた通り、織物会館の地下にあります。中央広場の地下から発掘されたものが様々なジャンルにわたって展示されており、特に考古学が好きという人なら絶対に行くべきでしょう。私もその1人ですが、博物館の規模は意外と大きく展示方法も凝ったものでじっくり見るならば1時間はいれるような場所でした。説明表記は英語とポーランド語のみですが、それらが十分に理解できなくても大丈夫なように工夫が凝らしてあります。

ヤギエウォ大学
(Uniwersytet Jagielloński)HP
ポーランド最古の大学ですが今でも多くの学生が通っており、そのレベルは国内2番目を誇ります。しかし観光客として見学したいのは、コレギウム・マイウスというヤギエウォ大学の数ある校舎のうち最も古い場所。コレギウム・マイウスは14世紀に建てられたもので現在は校舎としては使われておらず、人気観光アトラクションの1つとなっています。見学はツアー形式となっており、中に入ると「これが大学?!」と目を疑いたくなる程の展示物や部屋がたくさん。実はこの校舎の一部には教授や教会の神父たちが住んでいたそうです。

オスカーシンドラーの工場
(Fabrika Oskar Schindler)HP
オスカー・シンドラーは第二次世界大戦中を生きたドイツ人実業家。自身の工場でゲットーのユダヤ人を雇い、虐殺される運命となっていた1200名のユダヤ人の命を救ったといわれてます。アウシュヴィッツ強制収容所と関連する場所なので、アウシュヴィッツへ訪れる前にこの博物館に訪れる方は多いでしょう。シンドラーの工場という映画をご存知の方もいると思いますが、この映画を見ていなくても博物館の展示物やビデオだけでオスカー・シンドラーという人物を知るには十分です。私は、映画の方は30分もしない内に見るのをやめてしまったのですが、この博物館ではそこまでの残虐感はなく1時間以上滞在しました。

 

クラクフの関連記事

クラクフについては以下の関連記事もぜひご覧ください。

タクシー
アウシュヴィッツへの行き方

 

 

不動の人気ナンバーワン観光地として知られるポーランドの街、クラクフ。

世界遺産登録第1号でもあり世界中からの観光客で活気を見せるクラクフですが、そうなるまでの歴史的背景を皆さんはご存知でしょうか。なぜこんなにも美しい街が日本人にはあまり知られていないのでしょうか。この記事を最後まで読むとその答えが見えてきます。

クラクフ観光についてはこちらの記事にまとめています。ぜひご覧ください。

 

現存する最古の街、クラクフ

クラクフの歴史は、ポーランドが建国される10世紀よりもずっと前にあたる4世紀にまで遡ることができます。

つまり、ポーランドに現存する都市の中では最も古い街。また、現在の首都はワルシャワですが、その前は500年以上もの間に渡ってクラクフがポーランドの首都でした。しかし、ポーランドで最も歴史に翻弄された街だけあって苦労をした時代が長いのも事実です。

ヴァヴェルの竜
そんなクラクフが早くから名の知れた都市となった理由に、ヴァヴェルの竜という伝説があります。興味がある方はこちら(ページ下部)をご覧ください。

 

現在のヴァヴェル城 引用元
現在のヴァヴェル城 引用元

元々はボヘミア公国(現在のチェコ)の支配下にあったクラクフがポーランドの領土となったのは10世紀。

ポーランドの創始者ミェシュコ1世がボヘミア王(現在のチェコ)の娘と結婚したことに伴い、クラクフはポーランドの自治権となりました。

この頃のクラクフはバルト海への琥珀運送ルートとして非常に栄えており、ポーランド王国になってから直ぐにヴァヴェル城やロマネスク様式の教会が次々と建設されています。しかしこの時の首都はまだ、ポーランド発祥の地であるポズナニ/グニェズでした。

ポーランド王国の政治を建て直すために、首都がグニェズノからクラクフに移ったのは1038年のこと。

この頃、グニェズノ/ポズナニ周辺で暮らしていた原住民や農民が王国政治に対して不安と恐怖を感じ、大規模な暴動を起こします。身の安全のためにも当時のポーランド国王は他の地へ移ることを余儀なくされていました。

クラクフが選ばれたのは、クラクフが唯一、農民からの反乱を逃れられる場所であり、また元々商業で活溌な街だっただけに首都の移転先としてはピッタリだと判断されたためです。

 

三度のモンゴル侵攻

モンゴルのポーランド侵攻
モンゴルのポーランド侵攻

しかし1241年、モンゴルが突然ポーランドに侵攻してきたことでクラクフは完全に破壊されてしまいます。

1257年にはマクデブルク法(※)によって都市が建て直されますが、それも1259年に再び襲って来たモンゴル軍により壊滅的被害を受けました。

マクデブルク法
当時のヨーロッパ都市発展のために、最も重要な規定を定めたものとして知られていたドイツ都市法。

最初の侵攻からわずか18年後に二度目の侵攻、それも街が再建された直後だったのでこの時のポーランドのダメージは相当なものだったでしょう。

そして追い討ちをかけるように1287年、三度目のモンゴル侵攻がありましたが、この時のポーランドは対抗できるだけの戦術を身に付けておりモンゴル軍を追い払うことができました。

 

クラクフの全盛期

こうして一度ならず二度までも荒れ地へと化したクラクフでしたが、その後は地道に復興し、1320年には再びポーランド王国の首都となります。

街の中心部(現在の旧市街)は約3キロにも及ぶ、敵から身を守るための市壁に囲まれ、200年以上もの時をかけて33の塔と8つの入り口が作られました。この内の1つが現在、クラクフ旧市街のメインゲートとして知られるフロリアンスカ門(Brama Floriańska:ブラマ・フロリアニスカ)です。

photo: flickr by Jorge Láscar
photo: flickr by Jorge Láscar

また1364年には国内最古の大学、ヤギェウォ大学がピャスト朝最後の王、カジミェシュ3世によって創立されました。ヤギェウォ大学は中欧では、プラハ・カレル大学に続いて伝統のある大学として知られています。

ヤギェウォ大学創立後、直ぐにピャスト朝は終わりを迎えヤギェウォ朝(1386〜1572年)が始まりますが、この間のクラクフは商業と文化の中心地として数百年もの間栄えました。

 

欧州に支配された300年

しかし17世紀に入るとクラクフは衰退の一途を辿ることになります。

1649年に起こった、街を象徴するヴァヴェル城での火事を発端とし、それからわずか数十年もの間で暴動や伝染病の発生、スウェーデン軍の侵攻と略奪戦争(大洪水時代)によって街に暮らしていた多くの人が命を落とました。

過去には三度のモンゴル侵攻にも立ち直ることができたクラクフでしたが、この時のダメージは凄まじいもので経済成長は長く低迷します。

ポーランドの王も1596年にはワルシャワに移っており、既にクラクフは首都として機能していませんでした。そしてこの頃、ポーランドの勢力が急激に弱まっていたこともあり、その隙をつかれたポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3ヵ国に3度に分けて全ての領土を征服されてしまいまいます。クラクフはオーストリアに占領されました。

ポーランド分割
ポーランド分割

 

クラクフ共和国の誕生

1815年のポーランドは地図から完全に姿を消していましたが、ウィーン議定書に基づきクラクフ共和国という国家が建設されることになります。

クラクフ共和国は実際にはロシア、プロイセン、オーストリアの支配下にある国家でしたが、ポーランドの復活を望むクラクフ市民にとっては大きな希望

そこで領土の範囲を広くしようとクラクフ市民はクラクフ蜂起を実行しましたが、結果は失敗に終わりました。

この蜂起がきっかけで1846年、クラクフ共和国はクラクフ大公国となり、1918年にポーランドが再び地図に現れるまでは完全にオーストリアとして併合されてしまいます。

しかしクラクフ大公国となってからしばらくすると、オーストリアのわずかな情けと計らいによってポーランド語の政府と議会が置かれることになりました。

この時のクラクフはオーストリアの支配下にありながらも「ポーランドのメッカ」として文化・経済の面で成長を見せており、また同時に多くの詩人や画家などのアーティストを生み出しています。

 

ナチス・ドイツの侵攻

そんな最中、
1914年に第一次世界大戦が勃発。

この戦争は1918年に終結し、結果はドイツの敗北となりました。ドイツの支配から免れることが出来たポーランドはついに123年ぶりの独立を果たしますが、ポーランドが喜んだのは束の間。

間もなく第二次世界大戦が始まり、1939年9月、ナチスドイツは再びポーランドを侵攻しました。この時にポーランドはドイツ軍の占領下となり、再び地図から姿を消すことになります。

1943年のクラクフ
1943年のクラクフ

第二次大戦後のポーランドはドイツの支配や直接的な影響を免れたものの、戦後のクラクフは今とは似ても似つかないほど殺風景な場所と化していました。

クラクフに住む多くのユダヤ人とポーランド人はアウシュビッツ強制収容所で虐殺され、人口は一気に減少。

そんな状況の中でもポーランドは独立することが許されず、戦後間もなくソビエトの衛星国となります。ソビエトは宗教的な考えを排除する傾向にあったので、教会が多く信仰的であるクラクフの街並みや市民の敬虔な信仰心を嫌いました。

 

ポーランドの救世主が登場

しかしそこに、時代の流れを変えるヒーローがクラクフから現れます。

ヨハネ・パウロ2世
ヨハネ・パウロ2世

その人物こそ、ポーランド人たちが今なお愛する故ヨハネ・パウロ2世

彼はクラクフ教区で大司教を務めていましたが、1978年、初のスラブ人/ポーランド人ローマ教皇としてバチカン市国の高位聖職者の座に着きました。

ヨハネ・パウロ2世はソ連の衛星国として苦しむ母国を哀れみ、また母国だけではなく世界中にいる戦争で苦しむ国々を擁護し続けました。言動だけではなく行動も伴った彼の平和活動は世界中の人々の目にとまり、ポーランド国民はその彼の姿に大きく動かされたのです。

そしてこれを機にポーランド人のソビエトに対する反発心はどんどん増していき、民主化運動は1989年のソビエト解放まで続きました。

こうして今、やっと観光地として賑わうクラクフがあるというわけです。

 

現在のクラクフ
現在のクラクフ

初代から現代までに至るクラクフの歴史解説はここまでにしておきすが、こうした苦い経緯を経て現在の活気づいたクラクフがあります。1989年、やっと自由になったポーランドですが、実はつい最近まで何百年もずっと他国からの干渉に苦しめられていたのです。

共産主義時代のポーランドは観光どころかポーランド人ですら逃げ出したくなるような国でした。

ソビエトから解放された後もしばらく共産主義時代の名残が強く残っており、観光地として知られるようになるまでは随分と時間がかかっています。そう、クラクフが今のような観光都市となったのはまだここ十数年の話なんです。世界遺産だというのに、日本ではあまり知られていないのも無理はありません。

でもきっと5年後、10年後のクラクフは日本人の誰もがテレビや写真で見たことのあるような場所になるんじゃないかな、と私は思っています。

ポーランドは黄金期を迎えながらも悲劇を繰り返し経験し、そして自ら復興してきた国(詳細は下の関連記事をご覧ください)。多くの代表的なポーランドの街が第二次世界大戦で壊滅的被害を受けたにも関わらず、その難を逃れることができたのだけはクラクフの不幸中の幸いだったのかもしれません。

ポーランドの歴史 10世紀

 

ヴァヴェルの竜

IMG_6388伝説についての最も古い有名な報告は、Wincenty Kadłubekによる著書にある、12世紀のものである。広く知られたヴァリアントでは、都市の伝説的な建設者であるクラクス王の統治の世に、クラクフで起こった出来事とされている。凶悪な竜が毎日のように田園地帯の全域を破壊し、踏み固めて回る。さらに、人々を殺害し、人々の家で略奪をし、人々の家畜を貪り食った。物語の多くのヴァリアントで、竜は特に若い女性を食べることに興じており、都市の人々が月に1度、竜の洞窟の前に少女を置き去ることでわずかの間竜を鎮めることができた。国王はもちろん竜を打ち倒したかったが、王の最も勇敢な騎士達も竜の燃えさかる息の前に倒れた。少女の犠牲を必要とするヴァリアントでは、ついに、国王の娘ヴァンダ以外の、都市のあらゆる少女が犠牲になってしまった。自暴自棄となった王は、竜を倒せた者には誰でも王の美しい娘と結婚することを許すと約束した。近くからも遠くからも強力な戦士達が来て、褒美のために戦い、そして失敗した。ある日、スクプという名の貧しい靴職人の見習いが挑戦に応じた。彼は子羊に硫黄を詰め込むと、竜の洞窟の上にそれを置いた。竜は子羊を食べ、間もなく途方もない喉の渇きに襲われた。竜は喉を潤そうとヴィスワ川に向きを変え、水を飲みに飲んだ。しかし竜の痛む胃は多量の水でも和らぐはずはなかった。ついにヴィスワ川の水の半分を飲み、膨れ上がった挙げ句、竜は破裂した。スクプは約束通り王の娘と結婚し、2人はその後ずっと幸せに暮らしたという。
ー引用 Wikipedia

 

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あやか
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2件のコメント

川島玲 より:

聖マリア教会は観光客の立入禁止です。中で写真を撮るのは不適切です。

Ayaka より:

川島様

聖マリア教会は観光客専用の入り口があります。これは観光客専用の場所から撮ったものです。
また撮影用のシールを5ズウォティで購入すれば、撮影できます。

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