これからポーランドへ行く方が知っておきたい情報

マイダネク強制収容所訪問レポート 尊い命が行きつく場所

バラックの見学はここで終了
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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この記事の投稿日は8月24日ですが、実際に行ったのは8月30日です。

私と夫は、27〜30日にかけて東ポーランドのルブリンという街に3泊4日の小旅行をしました。マイダネク強制収容所は、今回の旅でも特に印象深く酷いショックを与えられる場所でした。

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マイダネク強制収容所博物館の入り口
マイダネク強制収容所博物館の入り口

マイダネク強制収容所の正式名称は、ルブリン強制収容所です。

収容所の近隣の村マイダンの名前をとって、ポーランド語風にマイダネク強制収容所と呼ばれるようになりました。

この強制収容所は、1941年10月から44年7月にかけてナチス・ドイツが管理し、欧州各国の15万人以上にも及ぶ人々がここに連行されたと言われています。そして、その内の約8万人はこの地で尊き命を落としました。

収容された人々はユダヤ人を除くと、ポーランド人、当時はソビエトだったベラルーシやウクライナからの収容者が過半数を占めています。最初は男性だけがここに連れてこられましたが、後に女性や子どもと老若男女関係なく多くの人々が収容されるようになりました。

しかし、ドイツの敗北が目に見えて来た1944年春、ナチスはマイダネク強制収容所を解体することにします。

解体された後のマイダネク
解体された後のマイダネク

解体時、囚人は他の収容所に移送されるかガス室で大量殺戮されるのが決まりでした。マイダネクでの最後の移送は1944年7月22日。翌日には赤軍がこの一帯にあったマイダン村に入り、その次にポーランド軍が入りました。

それと同時に、ルブリン市民や近郊に住んでいた者がこの収容所の有様を見ようと訪れますが、あまりの悲惨な光景にショックを隠せなかったそうです。

ここからもいかに、SSが周りの住民に悟られないようこそっりと、そして大胆にユダヤ人やポーランド人の迫害を繰り返していたことが分かりますよね…。

マイダネクのモニュメント「門」
マイダネクのモニュメント「門」

以後、この強制収容所は決して、歴史の闇に葬ってはいけない場所として1944年10月、博物館となりました。

アウシュヴィッツやドイツにあるダッハウなど、現在は博物館として公開されている強制収容所は他にも多くありますが、このマイダネク強制収容所がその中でも最も古い博物館と言われています。

そして2014年の秋、この博物館は70周年を迎えました。

ここで亡くなった欧州各国の1万7千人のユダヤ人、数万人以上の規模で殺害されたポーランド人やポーランド系ユダヤ人、何よりもドイツが近代に犯した大きな過ちを決して忘れないよう、この博物館は毎日開放されています。

 

それでは、見学スタート

あまりの広さに見学前から圧倒される
あまりの広さに見学前から圧倒される

このマイダネク強制収容所跡に入って、まず驚くのはその広さ。

現在のマイダネクには当時のバラックはすべて残っておらず、ぽっかりした空間が目立ちますが、いかにナチスがこの収容所を巨大なものにさせようとしていたのかが容易に想像できます。

マイダネクは270ヘクタール(アウシュヴィッツとビルケナウを合わせても、まだずっと広い)もの敷地があり、3つのセクションに分かれていました。

1つ目はベッドやトイレがある囚人のための収容施設があるエリア、2つ目は農園や倉庫などがあり囚人が働く労働エリア、最後にSSのための住居や管理事務所などの施設があるエリアです。

 

収容所に到着した囚人

収容所に到着したユダヤ人女性
収容所に到着したユダヤ人女性達

狭い輸送列車に押し込まれた囚人達がマイダネクに到着すると、敷地の中にある小高い丘に降ろされました。

そこからは広大な収容所を囲む有刺鉄線、そこら中に建ち並ぶバラック、人々が動き回る様子が見下ろせたそうです。

生存者の1人はその時に感じたことを、こう言っています。「人々は生きているの?ここで働いているの?」ー

ここに連れて来られた者は皆「今、住んでいる場所から移動するだけだ」とただそう言われ、抵抗することも許されず、数十時間、数日間も飲まず食わずの状態で列車に詰め込まれ、そして最終的に収容所に降ろされたのです。

誰もがわずかに抱いていた希望を一瞬にして失ったことでしょう。

 

最初から残酷すぎる収容所

私たちが最初に入ったバラック
私たちが最初に入ったバラック

ここは、労働者と選別された囚人がシャワーを浴び、着替えるまでの場所が一連になったバラックです。

年老いた者や病気の者は、特に何があるわけでもなく、何時間も次の命令があるまで外で立たされました。そして最終的にはガス室に入れられ、チクロンBが投げ入れられると5分も経たない内に悲鳴は聞こえなくなったそうです。

これが本当に人間のすることでしょうか。夫は「最悪だ」「考えられない」とずっと言っていました。

ヒトラーはある演説で「全世界が恐れる青少年達を育て上げよう。私は暴力をふるい傲慢かつ強固で残酷な若者を望んでいる」と少年の前で述べています。

そして歓声をあげる子どもたち…。悪夢としか言いようがありません。

シャワー室へと続く通路
シャワー室の前の服を脱ぐ部屋

労働者とされた囚人は、髪をここで刈り落とされ、その髪はドイツの軍事費用に充てるため布製品を加工する会社に売られました。マイダネクの管理事務所で見つかった記録によると、730キロの髪が売られたと書いてあったそうです。

実際に加工されたものは、アウシュヴィッツで見ることが出来ます。

ある生存者の回想

私たちは所持品と服を抱え、空っぽのバラックに押し込まれた。そして裸のままで立たされ、次の命令を待つ。やがて二重の扉が開くと鳥肌が立った。彼らは、700人の囚人の名前を読み上げ、テーブルを用意して囚人番号の登録作業を行った。それが終わると、100人のグループに分かれてシャワーを浴びるよう命令され、凍ったように冷たい地面を通り、100メートル先にあるシャワー室に向かう。そこで私たちは髪や髭を刈り落とされ、体中切られた毛でまみれた。

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囚人達はシャワー室で体を洗い、消毒をすることが義務づけられていました。

これは表向きには衛生管理のためですが、結局はSSが囚人達を汚物扱いしていたからに過ぎないと思います。

解説を読んでいるだけでゾッとする
見るだけでもゾッとする、消毒の浴槽
シャワーヘッドが天井にあります
シャワーヘッドが天井にあります

シャワーを浴びた後は上の写真の浴槽に入らされ、消毒液に浸かったそう。

囚人が収容されている間、下着が取り替えられるということは滅多になく、数週間に1回だけシャワーを浴びたり下着を替えることができたようです。このことからも衛生管理がきちんとなされていなかったのは言うまでもありません。

ちなみに写真の場所は男性用で、女性達はこの隣のバラック42でシャワーと消毒をすることになっていました。

しかもシャワーといっても、ただ石けんで体を洗って水を浴びるだけではなかったようです。生存者の1人はそのシャワーのようすをこう振り返っています。

ある生存者の証言

彼らは私たちの髪をハサミで切り、明るい青色の細長い薄板が張り付けられた汚い部屋に押し込んだ。天井からは数十のシャワーヘッドがぶら下がっていて、窓の下には長いテーブルがあった。ドアの隣には待ち部屋があり、そこにはコンクリートの巨大な浴槽が並び、石炭酸(フェノール)の入った水で満たされていた。

すると突然、氷のように冷たい水がシャワーヘッドから流れた。人々はそのあまりの冷たさに悲鳴をあげていたが、数秒後には沸騰したお湯が湯気といっしょに噴出された。もう逃げたかったが、逃げる場所などどこにもない。シャワーが終わると、他の「浴室」に連れて行かれた。ここで石炭酸に体を浸すのだ。SSはこれを皮肉るように、消毒の浴槽と呼んでいた。

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青はチクロンBが変色した箇所
青はチクロンBが変色した箇所

こちらは着替える部屋の写真です。

着替えの部屋であると同時に囚人服の消毒をする場所としても使われました。消毒にはチクロンBが使われ、効能をより発揮するように熱した空気を壁に張ったパイプで充満させていたそうです。

消毒された服はまた違う部屋にしばらく保管されました。その部屋は現在、チクロンBの缶が展示してあります。

ポーランド紙幣の肖像を飾る6人の君主
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※今日のポーランド語はお休み

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大量殺戮が起きたガス室

ガス室 - 青い部分は毒ガスの変色
ガス室 – 青い部分は毒ガスの変色

こちらは、先ほどの一連の部屋があるバラックの、最後の方にあるガス室。

このガス室では実際にチクロンBが使われ、人々が亡くなりました。特にユダヤ人の女性や子ども、高齢者が犠牲になり、また1943年の春まではユダヤ人以外でも病気になったりやつれた男性がこのガス室に入れられたそうです。

マイダネクでは1942年9月から翌年9月の1年間、敷地内にあった合計4つのガス室が稼働していました。これらのガス室では一度に約2千人の人々を殺すことができたと言われています。

バラック41にあるもう1つのガス室
バラック41にある3つ目のガス室

こちらのガス室はさっきのガス室と比べて、ただの四角い部屋というイメージですが、あの青く変色した部分はチクロンBの過度の使用で見られるものです。

載せてきた画像はすべてバラック41にあるものですが、このバラックにはガス室がなんと3つもありました。それぞれのバラックが隣続きで設置してあり、最後のガス室が最も小さかったです。

ガス室で人々を殺す際はチクロンBの殺傷能力を高めるために、窓や天井からチクロンBを投げ入れた後は温風が室内に送られました。死んだ人々は部屋から引っ張りだされて外に置かれ、囚人によって焼却炉まで運ばれたそうです。

アウシュヴィッツのガス室
アウシュヴィッツのガス室

アウシュヴィッツで見ることのできるガス室は復元されたものですが、マイダネクでは当時のままだそう。しかし、個人的にはあの生臭さというか当時のようすがより鮮明に思い浮かぶのは、アウシュヴィッツの方かも知れません。

きっと実際に中に入ることができ、爪痕までもが間近で見れてしまうから?

でも、なんででしょう…。同じ悲劇の場所、それには比べるものもないはずなのに「あっちの方が…」と感じる自分には嫌悪感がさしました。記事にするために撮影しましたが、そうでもなければ撮影する雰囲気にはとてもなれません。

3つ目のガス室の後はもう出口になりますが、このバラック41の前には小さなスクエアがあり、そこは “Rosengarten” (バラの庭)と呼ばれていました。主にユダヤ人の選別が行われましたが、労働者として生かされた人はわずかでほとんどはガス室行きだったそうです。

 

無機質なバラックが続く

倉庫と労働をするためのバラック
倉庫と労働をするためのバラック

バラック41を出て少し先に進むと、倉庫や、囚人が労働をしていたバラックがしばらく続きます。また、SSの管理事務所もこの辺りにありました。

これらは収容者が寝ていたバラックから近い場所に建てられ、労働のバラックでは靴、縫い物、電気系など様々なジャンルに分かれていたようです。

また倉庫として、服はバラック48〜50、装置や工具はバラック51と52、囚人の所持品はバラック43と44で保管され、バラック43では新たに到着した囚人達の登録も行われました。

強制収容所で亡くなった一家の写真
強制収容所で亡くなった一家の写真

それぞれのバラックへは立て続けに入れるようになっていました。

どちらかというと資料館のような感じで実物展示などは一部を除いてありませんでしたが、第二次世界大戦中の歴史やゲットーのことが細かく説明してあります。英語が読める方は読んでしまうと止まらなくなるかもしれません。

私は時間の関係ですべて読むことは出来ませんでしたが、アウシュヴィッツでも同じような内容を読んだことがありました(常設展示ではない箇所)。

ただ、銀色のプレートの説明文はすべて読むことに。内1つの、「外部の者と連絡を取っていた囚人の話」を紹介することにします。文脈が乏しく意味が汲み取りづらい部分もあったので、そこは意味がつながりやすいように補いました。

ある生存者の証言

受け取った小包のレシートで、私たちが生きていることや今どこにいるかを家族に伝えることが出来た。だから毎週、小包が来るのが待ち遠しかった。(外部から何かを届けるために)カートを引っ張った男が到着した時は、夫や兄弟、友人のことを尋ねるチャンスでもあった。時々、一切れのパンと引き換えに秘密のメッセージを届けてもらうこともあった。

外部から届く小包は、栄養上のサポートよりもずっと価値のあるものだった。このおかげで、私たちは1人じゃないこと、家族がいること、(ポーランド人が運営する)社会福祉や(ポーランド人の)政治組織に守られていることを知ることが出来た。

青色がマイダネク、→は移送先
青色がマイダネク、→は移送先

拡大しないと見にくいのですが、この地図でマイダネクの囚人達はどこへ移送されたのかが一目で分かります。

殺されなかった囚人達は労働だけではなく、たらい回しのように他の収容所に移送されることがよくありました。最初こそ収容者の名前リストなどを移送先に送っていますが、だんだんこれが省略されて記録がなくなっていきます。

まだまだ続くバラック
まだまだ遠くに続くバラック

写真左手の長い建物は、バラック62。歴史資料が展示してある場所です。

ここまでのバラックでは英語が読めない場合、少し退屈に感じるかもしれません。しかし、一部のバラックでは収容者のベッドや靴が展示してあり、半音低い音がただ一定に重く鳴り響く “shrine” というバラックもありました。

マイダネクで亡くなった犠牲者を悼む
マイダネクで亡くなった犠牲者を悼む

ところで、マイダネクはアウシュヴィッツと決定的にちがう部分があります。

それは、歩きやすさ。

アウシュヴィッツでは本当に当時のままといった感じで、(おそらく)あえて当時の景観をくずさないように最低限の舗装しかされていません。しかし、マイダネクでは割と綺麗に舗装されているのであまり疲れは出ませんでした。

 

より博物館的なバラック62

チクロンBの缶とその中身
チクロンBの缶とその中身

今まで見て来たバラックとはまったく違って、こちらのバラック62では博物館っぽい展示方法となっていました。

しかし、文字量もかなりあるので全部を見ていたら1時間あっても足りないと思います。ただ、実物展示が多くあるのでそれだけでも当時のようすを少し思い浮かべることができるでしょう。

実際の囚人達のようすや収容所で行われていた実態については、私たちが想像するに難しいことだと思います。

私もここでの説明文は多すぎて一部しか読めなかったのですが、生活環境についての話はすべて読んでしまいました。

囚人達の生活環境

囚人は、収容所での劣悪な生活環境に悩まされていました。バラックには漏れ穴があったり、基本的な何かが欠けていました。囚人服は防寒には対応しておらず、少しでも暖かくしようと藁や紙を服と体の間に入れていると重い刑罰の対象となったそうです。

1943年の中頃まではほとんどの建物で汚水設備が使えなくなり、ノミやシラミ、トコジラミなどの虫がわいて囚人達は伝染病に苦しみます。それはやがてガス室以外の場所でも大量の死者を生む結果となり、時にはSSまでもがチフスを患いました。

毎日の日課は、慌ただしい食事と労働、外で行われる点呼でした。点呼は数時間も続くのがふつうで、更なる疲労を招いたといいます。夜に亡くなった者は、朝の点呼で確認できるよう外に運び出されました。囚人が収容所から出ることが出来たのは労働の時だけで、外にいる時は常に塔からSSに監視されている状態でした。……

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しかし、こんな環境の中でもアウシュヴィッツ同様、地下組織として外部との接触を試みるグループもいたようです。

そういったチャンスが与えられるのは一部のポーランド人だったので、リーダーであるポーランド人の囚人達は他の国の者を積極的に助けました。

囚人達が使ったスプーンや鍋
囚人達が使ったスプーンや鍋
囚人のスーツケースのタグ
囚人のスーツケースのタグ
女性の囚人が来ていた囚人服
女性の囚人が来ていた囚人服

マイダネクに収容された人々

「ゆっくり急ぐ」という意味を持つ
「ゆっくり急ぐ」という意味を持つ

こちらの亀のモニュメントは、展示物の中でもひと際目を引いているもの。

これは Albin Maria Boniecki という囚人により、「ゆっくり急ぐ」の象徴として作られました。囚人にとっては働くことの抵抗を表したそうですが、SS側からするとただの飾りだったそうです。

上の写真の奥に何人かの顔写真や似顔絵が見えますが、彼らはマイダネクに収容された囚人達で生存者も数人います。

マイダネクに収容された人々

img_2938.jpgロムアルド・シュタバ
1913年、ドンブロヴァ・グルニチャ(ポーランド)生まれ。医者。1941年1月、秘密団体に属していたことを理由に逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所に収容された後に同じ医者であった囚人グループと共にマイダネク強制収容所へ移送される。マイダネクでは囚人番号16が与えられた。収容所内の病院にて医者として働き、またその一方でレジスタンスグループの中心人物でもあった。1944年4月、マイダネクの解体に備えてグロスローゼン強制収容所に移送され、後にリトムニェジツェ収容所(チェコ)に移送。戦後はグダニスク医学大学にて小児外科の教授を務める。ドイツ、デュッセルドルフで行われたマイダネクでのナチスの犯罪を問う裁判では、証人となった。2002年に他界。

イェジェ・ペッフェル
1908年、ワルシャワ生まれ。会計学と経済学を学んだ後に結婚し、1936年に長男イグナツェが誕生。イェジェは父と共に革製品の貿易会社を設立した。ポーランドがドイツに占領された時、ワルシャワのゲットーで働いていたが、ワルシャワゲットー蜂起の後に彼の家族と共にマイダネクに収容される。そこですべての家族と親戚を失う。1943年6月21日、ルブリン周辺にあった製材所から脱走し、ワルシャワに到着。隠れ家で暮らしていた。ワルシャワ蜂起に参加し、敗北の後に名字をジェリニスキに改めた。戦後はウッヂに住み、1946年に再婚。その1年後にアメリカへ移住し、1999年に他界した。

ウルシュラ・トフマン – ヴェルツ
1930年生まれ。家族と共にタルノグルド(ポーランド)から強制移動を命じられ、ズヴィエジェニェツにあった収容所に収容された後、マイダネクへ移送。1943年夏、家族と共に第三帝国の労働者となり、2年後に帰還。戦後、以前に会計士として働いていたワニツトに暮らしていた。

ブロニャ・ゼスマン
1930年、有名なルブリンの仕立て屋の娘として生まれる。1926年に生まれた姉バシャと共にマイダネクのゲットー解体(1942年11月28日)の後、マイダネクに収容される。姉の命を守るために、ブロニャは自身を姉より年上だと主張し、誕生日を1927年10月28日とした。1943年5月21日、既に姉が投獄されていたルブリン城の牢獄に66人の女性囚人グループと共に投獄され、裁縫婦として働いた。しかし、1944年7月22日、城で集団処刑される。ソ連の支援によってルブリン政権が樹立した前日のことだった。

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囚人一人ひとりに彼らのようなエピソードがあり、その一方、名前すら記録に残されず命を落とした人も数えきれない程います。ここでの死者数は(たったの36ヶ月の間に)推定8万人とされていますが、実際にはそれ以上の人々が命を落としたんでしょうね。

収容所での死者も多いですが、ポーランド国民のナチス・ドイツへの抵抗(各地で起こった蜂起)により、失われた命も決して忘れてはいけません。

第二次世界大戦中、日本で亡くなった民間人は80万人、ポーランド人では民間人600万人と言われています。

日本よりも面積の小さいポーランドがどれほど激戦と化していたか、そしてナチスによる迫害がどれほど酷いものだったか、その規模がこの数字だけでも読み取ることが出来るのではないでしょうか。

 

奪われた10,000の靴

遺品
バラックに敷き詰められた大量の靴

先ほどのバラックを後にし、次に入ったバラックでは思わずゾッとしました。

これらの靴はガス室で殺されたユダヤ人達のものです。マイダネクは巨大な敷地や倉庫を持っていたことから、他の収容者のガス室で殺された人々の靴も輸送列車で運ばれ、ここに保管されました。

この靴の数以上に失われた命
この靴の数以上に失われた命

男性、女性、子どもの靴…。

その靴を履いていたであろう人々の姿が目に浮かんできます。マイダネク解体後に見つかった靴の数は、約430,000足だったそうです。恐ろしい。

もちろん、ここで見つかった数であって全体のほんの一部に過ぎません。

 

ついに端の方に来た…

バラックの見学はここで終了
バラックの見学はここで終了

たくさんのものを見てきたせいか、随分と歩いてきた気がしましたが、まだようやく敷地の端に来ただけです。

当時、この4キロにも及ぶ道は囚人によって作られ、皮肉にも使われた石は壊されたユダヤ人の墓でもありました。またルブリン・ゲットーを建設する際に壊された家の瓦礫なども使われました。

一度入ったらもう終わりの世界
一度入ったらもう終わりの世界

1944年3月16日、ここから複数の囚人達が脱走したというニュースが収容所内に一気に広まります。

逃げた囚人達は夜、白いシーツを被り、雪を這うようしにて予め決めたルートを進み、有刺鉄線に近づきました。途中でSSのガードをやっつけ、見張りの塔に火を付けたことも一度あったようです。

これらの脱走した囚人達の存在が分かったのは点呼の時ですが、またその数日後にも脱走が起こり、なんと明るい時間帯に発生した日もあったとか…。

無数にあるようにも思える監視塔
無数にあるようにも思える監視塔

SS隊員の監視だけではなく、有刺鉄線が敷地を二重に囲んでいる環境で逃げ出したとは並大抵の体力ではありません。またその分、背負わなければいけないリスクもかなり高かったでしょう。

ちなみに収容所は外部の世界と遮断するための監視が厳しく、2.2mもの高さの有刺鉄線には高電圧が流れており、その周りには18の監視塔、そしてその塔には動くサーチライトと機関銃が備え付けられ、24時間の見張り、200頭のシェパード犬が飼われていました。

 

そして死体焼却炉へ

奥の煙突が死体焼却炉
奥の煙突が死体焼却炉

最初に見学したガス室からこの焼却炉までは随分と長い道のりです。

この道を通りながら私が思うことといえば、人間の愚かさと怒りしかありませんでした。どうして、ここまで人は残酷的になれるのでしょうか。

囚人の遺体への冒涜

私たちが死亡率について話す時、同時に亡骸のことを考える。この収容所で起こった最も恐るべきことは、正確に言えば、亡骸に対する尊厳である。

生きていた時に残酷な扱いを受けた人々は、死後も尚、残酷な扱いを受けた。女性達がガス室で殺され、遺体を葬られた時、彼女達の生きた証といえば焼却炉の煙突から出る煙だけだった。[…]最初の恐怖は、遺体から金歯を抜くことだ。[…]「死体運び」は朝に男性のゾーン(収容所は男性や女性、子どものゾーンに分かれていた)からやって来て、一輪車に死体を投げ入れ、収容所中を運んだ。一輪車はとても浅くて小さく、死体の手足がもつれあっていた。時々、それらの遺体が地面を引きずってさえいた。

入る前はぞくぞくと寒気が…
入る前はぞくぞくと寒気が

この死体焼却炉(クレマトリウム)では遺体が焼かれただけではなく、1943年秋から解体されるまでの間、死刑が執行された場所でもありました。その空間もまだここに残っています。

建物は再建されたものですが、中で見ることのできる炉は当時のままの姿。

そして、クレマトリウムには管理事務所、シャワールーム、検死室、遺体を保管するための2つの倉庫、そして燃料を保管する倉庫が隣接していました。

ちなみにアウシュヴィッツでは、実際に人々がガス室に入って行き、ガス室へ入れられ苦しみ、そして灰になるまでの一連の流れを見ることができるクレマトリウムの模型があります。

灰となった遺体は収容所内の農園の肥料になったそうですが、ここからも遺体への冒涜が強く感じられますね。

クレマトリウムの近くにある霊廟
クレマトリウムの近くにある霊廟

円形ドームの霊廟では、焼却された人々の遺灰を見ることが出来ました。

あえて、そこで見たものの写真はここでは載せませんが、こういうのを見て「怖い」とか「楽しい旅行なのに、わざわざこんなネガティブな場所に行きたくない」と思うのであれば、それはただの平和ボケに過ぎないでしょう。

ここで私たちの見学は終わりましたが、本当に複雑な感情に包まれました。

それでも私たちが人を赦(ゆる)さねばならないのなら、これほど難しいことはありません。話は飛ぶようですが、カトリックの洗礼を受けてから「私たちも人を赦します」という言葉を毎日耳にするので、そんなことをふと思いました。

この場所が博物館として公開されている以上、これからも多くの人々がここを訪れます。そこで感じたことを常に忘れないようにするのは難しいでしょう。

しかし、歴史を忘れる者は同じことを繰り返すという事実は決して忘れないでください。ここで亡くなった尊い命が無駄にならないように、少しでも多くの方にここを訪れてほしいです。

レポートおわり

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5件のコメント

吉見 より:

すばらしい!

記事へのご感想ということでしたら、ありがとうございます。
マイダネクに訪れる日本人は滅多にいないと思いますが、実際に行った自分としてはどういった場所であるか書かずにいられませんでした。

あまゆう より:

アウシュヴィッツやダッハウの収容所のことは、よく聞く機会がありましたが
マイダネク収容所について、はじめて、よく知ることができました。
ポーランドは美しい国なのに、本当に悲惨な戦争の傷を負っておりますね。
とても貴重な情報発信をありがとうございます。

ふみ より:

新型コロナウイルスが蔓延し海外に出られなくなってまる2年、ふと1994年にでかけた50日間の旅の途中で訪れたマイダネクのことを思い出し、今夜はAyakaさんのリポートを読むご縁がありました。

この収容所のことは、昨日訪れたように思い出せます。実は、数日後にアウシュビッツビルケナウを訪問することは、日本にいるときから計画に入れてあり、ルブリンではただ町を見ることにしていたのに、あまり見どころのあるところでなかったため、気楽に見に行ってしまったのです。歩き方に少し「郊外に収容所があり、いつでも見学できますよ」程度の説明があり、アウシュビッツの前に、見ておいてもいいかなと思い。

後悔しました、覚悟もなく物見遊山に出かけたことに。アウシュビッツよりずっと、記憶が生々しく鮮明です。

思い出すと、夜なかなか寝られなかったりします。部屋を暗くして眠れなくなります。人間がいかに残酷になれる生き物か、この場所は静かに教えてくれるところです。

コメントありがとうございます。
お返事が遅くなってすみません。

ふみさんは1994年にポーランドを訪問されたとのことで、きっと今のポーランドと同じようでちがうものを見られたのでしょうね。
マイダネクに行く外国人は今でもそれほど多くないと思いますが、たまにこの記事を読んで関心を持ってくださった方からメールをいただきます。
確か、マイダネクはアウシュヴィッツよりも先に博物館になったと記憶しています。すっかりアウシュヴィッツのほうが有名ですが、ツアー形式ではないマイダネクでは敷地が広いだけに、アウシュヴィッツより滞在時間が長くなっても不思議ではありません。
あの場所は、何も知らずに行くようなところではない、私もそう思います。たとえ、ポーランド語や英語がよく理解できずとも、あの場所にいるだけで人間の残酷さを第六感で受け取ることができるはずです。今でもアウシュヴィッツへ行くたびにマイダネクにあった巨大な霊廟を思い出し、そのことを訪れた方々にお話しします。
確かに覚悟もなく行くような場所ではありませんが、知られないままというのも残酷です。一人でも多くの人に過去から何かを学ぼうとする姿勢を持ってほしいですし、過ちに対する絶望だけでなく、人間の美しいところにも気付いてほしいと思っています。

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