これからポーランドへ行く方が知っておきたい情報

第6回 ショパンの故郷 ワルシャワってどんな街?

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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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最終更新日:2017年2月21日

こちらは、個人的に観光客の皆さんにお勧めしたいポーランドの魅力的な都市を紹介していくコーナーです。
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第6回は、ついに首都ワルシャワ

ワルシャワはポーランドで最も近代的な都市。ショパンに縁のある場所としても華やかなイメージがあります。しかしその一方、ナチスによって徹底的に破壊された悲劇の街でもありました。

かつては北のパリとも呼ばれていた華やかなワルシャワと、戦乱を生きた人々の思いを重ね合わせて街を眺めると、また違った景色が見えてくるはずです。

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Warszawa
Warszawa

 

このページの目次
1. ワルシャワの位置
2. ワルシャワの歴史
3. どんな街?
4. 市内の交通・料金
5. 市内へのアクセス
6. 主な観光スポット
7. ワルシャワの関連記事

 

ワルシャワの位置

ワルシャワ/Warszawa はヴィスワ川中流に位置するマゾフシェ県/Województwo mazowieckie の県都。

首都だけに各都市・各欧州からのアクセスも良く、欧州大陸を縦断する位置にあるワルシャワは中世から商業や文化の交通ルートとして栄えていました。それは今も変わらず、ワルシャワは日々成長を遂げる街として知られています。

第二都市のクラクフは、ワルシャワから南西に約250キロの場所にあり、この2都市の間は飛行機で約50分、国内最速列車で2時間20分の距離です。

mapa

 

ワルシャワの歴史

ここに載せると記事が長くなってしまうので下の関連記事にまとめました。

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どんな街?

歴史の記事を読んだ方は、重苦しい気持ちになったかもしれませんね。

photo: flickr by Kamil Porembiński
photo: flickr by Kamil Porembiński

しかしそんな鬱々とした過去からは想像もできないほどに見事な復興を成し遂げ、また戦後のポーランド人たちの “首都再建” という情熱もあって、現代の首都ワルシャワは戦後とは対照的な姿へと生まれ変わりました。

世界遺産に登録されたワルシャワ旧市街は戦前とまったく変わらぬ姿でありつつ、一歩その旧市街から足を外してみるとそこに広がるのはビジネス街。

ワルシャワは1つの街でありながらも中世と現代の2つの顔を合わせもつ、なんともユニークな都市なのです。

また数ある苦難の歴史を忘れまいと、市街にはワルシャワ蜂起やゲットー、強制収容所に関連した博物館が点在しており、ナチス・ドイツによる悲惨な行為を「二度と繰り返してはならない」と現代の人々に懸命に伝えています。

ポーランドといえばこの人!
ポーランドといえばこの人!

さて、そんな悲劇の渦中を生きた人物の一人にフレデリック・ショパンというポーランド人がいます。

皆さんもご存知、あの音楽家のショパンですね。彼は当時ワルシャワ公国であったワルシャワ郊外の小さな村で生まれました。ポーランド人の母を持ち、フランス人の父を持つショパンはいわゆるハーフでしたが、本人は最期までポーランド人として熱烈な愛国心を抱いたまま39年の短い生涯を閉じています。

そんなショパンが愛したポーランド、ワルシャワを訪れる日本人観光客は実は非常に多く、 “日本人はショパンが大好き” と知れわたっているほど。

ショパンに縁のある街ワルシャワは、彼の足跡をたどるだけでも1日以上はかかってしまうくらい見所のある都市です。

 

市内の交通・料金

ワルシャワの公共交通機関は主にトラムとメトロ、バスになります。

市街はポーランドの他都市同様、だいたい徒歩30分程で見てまわることが出来るコンパクトさ。メトロとトラムをうまく乗りこなせば、ほとんどの観光地には迷わず行くことができます。とはいっても、地図は忘れないように…。

photo: flickr by Wiesław Ludwiczak
photo: flickr by Wiesław Ludwiczak
有効時間 料金(PLN)
20分間有効 3.40
75分間有効 4.40
90分間有効
24時間有効 1526
週末乗り放題 24

※2017年2月現在
※トラム/メトロ/バスのチケットは共通

ワルシャワのチケットはゾーン制なので少し複雑です。通常の市街観光であれば、20分間有効チケットでOK。

ゾーン2はワルシャワ郊外となり多くの観光地はゾーン1圏内にあるので、24時間有効チケットのゾーン1(15PLN)を購入していれば安心です。

参考:ZTM公式ホームページ

また、ワルシャワの公共交通機関については下記のページでも解説しています。

 

市内へのアクセス

空港:ワルシャワという名前の付く空港は、ショパン空港とモドリン空港の2つがあります。モドリン空港はライアンエアーという格安航空会社あるいはチャーター便のみとなるので、9割以上の日本人はショパン空港を利用することになるでしょう。各空港から市街への行き方は以下の関連記事をご覧ください。

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列車:ポーランドの各都市からワルシャワまでは直行列車がたくさんあります。国際夜行列車でオーストリア、ドイツ、ハンガリー、チェコ、ウクライナの各都市から直行列車で訪れることも可能。

ワルシャワの駅
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バス:列車と同様、ポーランドや隣国各都市からの短〜長距離バスが豊富にあります。現在、列車との価格競争でポーランド航空が非常にお手頃な運賃となっているので、中距離では列車、長距離では飛行機を利用するのがおすすめです。

※2016年3月現在

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主な観光スポット

ワルシャワ・ツェントラルナ駅の隣にあるメトロのツェントルム/Centrum 駅から観光を始めるといいでしょう。

マルシャウコフスカ通り/Ulica Marszałkowska に沿って歩き、フミェルナ通り/Ulica Chmielna が右手に見えたらその通りへ曲がってください。この通りの突き当たり左に曲がると、旧市街に伸びるノヴェ・シフィアト通り/Ulca Nowy Świat に出ます。

ノヴェ・シフィアト通りは17世紀頃、ワルシャワが開拓されたことにちなんで作られた通りで、日本語では “新世界通り” といいます。第二次世界大戦で完全に破壊されましたが、今では中世の建築様式の建物が昔と同じ姿のままで見ることができるので、ぜひゆっくり雰囲気を堪能しながら歩いてみてください。

ノヴェ・シフィアト通り
クラコフスキ・プシェドミェシチェ

ちなみにノヴェ・シフィアト通りは、途中でクラコフスキ・プシェドミェシチェ通り/Ulica Krakowskie Przedmieście という名前に変わります。
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王宮(Zamek Królewski)HP
元々は13世紀に公爵の城郭として建てられたものですが、1526年に国王ジグムント1世が遺産としてその城郭を継ぎ、それからは王が所有する王宮となりました。今では立派なバロック様式の宮殿として旧市街の中でもひと際目立つ建物ですが、幾度となく略奪や破壊を受けた悲劇の象徴ともいえる建物です。1970年代、廃墟に残った建物の欠片を集めて10年以上もの月日をかけ、忠実に復元されました。

聖十字架教会
(Kościół Św. Krzyża)HP
「私が死んだら、私の心臓を故郷のポーランドに持ち帰ってほしい」という遺言通り、ショパンの心臓は故郷のワルシャワに持ち帰られました。そして、その心臓が収められた石柱がこの聖十字架教会にあります。教会ではたまにコンサートもやっているので、夕方に訪れてみるといいかもしれません。

ワジェンキ公園
(Łazienki Królewskie)HP
毎年5月〜9月の日曜日はショパンコンサートが開催され、日本人ピアニストも活躍しています。東京ドーム16個分の広さを誇るワジェンキ公園では、コンサート鑑賞もすれば半日は過ごせるでしょう。また公園内にある美しい水上宮殿も魅力の1つ。宮殿内には18世紀の芸術品や家具が展示してあります。ちなみにワジェンキとは浴室という意味。

photo: flickr by Paul Sableman
photo: flickr by Paul Sableman

ワルシャワ歴史地区Stare Miasto
世界遺産に認定されているワルシャワ歴史地区(いわゆる旧市街)はワルシャワの最も傑出した観光スポット。この地区が建設されたのは13世紀ですが、それ以前は人口数千人の寒村でした。16世紀になると王が住まい、やがて首都となり権威の象徴ともなったワルシャワは、18世紀に入ってから徐々に衰退していきます。第二次世界大戦中はドイツ空軍によって壊滅状態になりましたが、戦後は市民の手によって壁のヒビ1本までも綿密に再現されました。

ワルシャワ蜂起博物館(Muzeum
Powstania Warszawskiego)HP
1944年、8月1日17時00分。第二次世界大戦の真っ最中、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで、約5万人のポーランド人がドイツ軍に反撃(ワルシャワ蜂起)しました。まともな武器すらないポーランド人、ふつうに考えて勝つ見込みは無いに等しかったのですが、それでもポーランド人は死を覚悟でドイツ軍に立ち向かいます。この博物館は当時の勇敢なポーランド人の記録でもあり、ナチス・ドイツの残虐性が最も伝わってくる場所。ここを無視するということは広島に来ておいて原爆ドームを見ないのといっしょかもしれません。

ユダヤ人歴史博物館
(Muzeum Historii Żydów Polskich)HP
ワルシャワ蜂起から70年後の2013年にオープンしたユニークな展示方式の博物館。ナチス・ドイツといえばユダヤ人迫害を真っ先に思い浮かべる人が多いと思いますが、日本ではユダヤ教そのものはもちろんのこと、ユダヤ人について学ぶ機会がありません。ここでは悲しい歴史ばかりに焦点を当てるのではく、まずユダヤ人の文化を知り、ポーランドがユダヤ人を受け入れた背景にもスポットを当てています。博物館は予約制となっているので、シーズン中はネットで事前購入しておきましょう。
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ワルシャワ蜂起博物館、ユダヤ人歴史博物館の詳細と行き方はこちらの記事で詳しく解説しています。

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ワルシャワの関連記事

ワルシャワについては以下の関連記事もぜひご覧ください。

タクシー

 
 

ワルシャワとかポーランドの歴史を語りだすと止まらなくなるのですが、今日のところは適度にブレーキをかけながら解説していきたいと思います。

なんて言いながら、
長くなったらごめんなさい

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なぜワルシャワが首都に?

現在のワルシャワ
現在のワルシャワ

ワルシャワという街が初めて文献に表れたのは1313年のこと。

その前のポーランドの首都は500年以上にもわたってクラクフに置かれており、ワルシャワが首都の移転先となったのは1611年の出来事でした。

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ポーランド王国によって開拓されるまでのワルシャワは、ヴィスワ川での漁業で生計を立てているような素朴な村で人口はたったの数千人。しかし13世紀末には公爵のための城郭が建設され、これが後の王宮となります。

photo: flickr 王宮 by Arian Zwegers
photo: flickr 王宮 by Arian Zwegers

15世紀の人口は4,500人程度。そんな村が首都となった理由とは…?

最初のきっかけは、やはり王宮の基となった城郭にありました。それに伴って1413年、ワルシャワの位置するマゾフシェ地方の中心がチェルスク(今も現存するのどかな村)からワルシャワへと移され、大聖堂も建設されます。しかし、まだこの時点ではある地方のちょっと栄え始めたくらいの場所。

ワルシャワに大きな転機が訪れるのは、まだまだ先の話です。

 

首都クラクフでの火難

その出来事は1595年。

代々の王が居住していた首都クラクフのヴァヴェル城で大規模な火災が起こりました。これにはやむを得ず、他の地へ移ることを余儀なくされた当時の国王ジグムント3世。そこで城郭のあったワルシャワが、火災から翌年の1596年に遷都されることとなったのです。

ただし彼が実際にワルシャワに居住したのは1611年以降なので、正式な首都として登録されたのは後者の1611年だといわれています。

ジグムント3世
ジグムント3世

元々国王ジグムント3世は、ポーランド王でありながらもスウェーデンの王位を狙っており(最終的にはスウェーデン王位を継承)、ポーランド南部に位置するクラクフは政治上、立地的に不便でした。そんな時にヴァヴェル城が火難に遇ったため、国王はスウェーデンに近いワルシャワを選んだというわけです。

でも正直なところ、スウェーデンにより近く、貿易で非常に栄えていたグダニスクが首都のイメージにピッタリ。

しかし当時のポーランド王国はドイツ騎士団との兼ね合いもあり、それならばと手があまりつけられていない状態で開拓しやすく、かつ城郭のあったワルシャワが選ばれたのでしょう。

最初の記事

 

絶頂期を迎えるワルシャワ

16世紀のワルシャワ
16世紀のワルシャワ

こういった経緯があり、めでたく首都となったワルシャワ。

16世紀の人口は1万人を超えており、首都となってからはさらに爆発的に人口が増えています。ちなみにこの時に建設された新市街が、現在復元後の姿として見ることのできる旧市街。

そして1764〜72年のポーランドは、ポーランド・リトアニア共和国として史上最期の黄金期を迎えました。

この時のワルシャワは、”北のパリ” と言われるまでに急速な文化・経済発展を遂げています。当時活躍した重要な人物に、タデウシュ・コシチュシュコという人物がいますが、彼についてはまた違う機会に話すことにしましょう。

タデウシュの銅像はヨハネ・パウロ2世、とまではいきませんが、やはりポーランドのヒーローとして至るところで見ることができます。

 

第三次ポーランド分割

ポーランド分割
ポーランド分割

しかし、この黄金期の背後には既にポーランドの全領土を奪おうと企んでいたロシア、プロイセン、オーストリアの影が近づいていました。

隙をつかれたワルシャワは第三次ポーランド分割でプロイセン領になり、1795年、ワルシャワもさることながらポーランドはこの時から123年間、完全に地図から姿を消すことになりま す。

1807年にはナポレオンがワルシャワ公国(音楽家ショパンが生まれたのはこの時)を建設し、ポーランド人の誰もが国家独立を夢に見ましたが、それも結局叶うことはありませんでした。

そしてもう、ここからのポーランドの状況はますます悪化していくばかり。

そもそもポーランド自体が存在していなかったのですが、ショパンも含め、ポーランド人皆がポーランドの復活を願っていました。他国に領土を奪われたポーランド人はポーランド語を習うことも出来ず、この間に文化が発達することがなかったのは言うまでもありません。

むしろ今、ポーランド語が当時とあまり変わらぬ体系のまま、存在しているのは実に奇跡的なことなのです。

補足説明
ポーランド分割についてはまたいずれ記事を書こうと思うのですが、今のところ、この説明はウィキペディアの「ポーランド分割」に任せます…。

 

愛国心にかけた戦い

19世紀のワルシャワ
19世紀のワルシャワ

しかし水面下でポーランド人は、ワルシャワからのポーランド独立を決して諦めることはありませんでした。

その願いがついに叶ったのは第一次世界大戦終戦の1918年。

この年、ドイツとオーストリアが敗戦国となると、ポーランドの独立がパリ講和会議によって承認され、実に100年以上もの時を経て再びワルシャワが首都として栄えるようになります。

ただしその喜びが長く続くことはなく、次にポーランドを悲劇に陥れたのは1939年の第二次世界大戦でした。

最大の敵はナチス・ドイツ。

ワルシャワに立つヒトラー
ワルシャワに立つヒトラー

ユダヤ人迫害で知られるナチス・ドイツの残虐行為ですが、実はポーランド人も迫害の対象となっており、劣等人種として何十万、何百万人ものポーランド人がナチス・ドイツからの攻撃や虐殺、拷問によって亡くなっています。

ポーランドは不公平な主張と攻撃を続けるドイツ軍を決して見過ごすわけにはいかず、死を顧みず、何度も自国を守るための抵抗を試みました。

 

その戦いの1つがワルシャワ蜂起。続編として次の記事をお読みください。

 

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あやか
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