義両親から共産主義時代の暮らしを聞いて唖然とした



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ポーランドは戦後から1989年までポーランド人民共和国と呼ばれ、ソ連の衛星国・社会主義体制をとっていました。

そのこともあって、私がご案内中によく耳にするのがこういった感想です。
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ある人
ポーランドへ来る前は共産主義独特の暗いイメージしかなかった。でも実際に来てみて、思ったより都市化が進んでいるし綺麗な国でびっくりした。

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私自身はソ連が崩壊した年に生まれただけあって、数年前までこの共産主義独特のイメージを掴めずにいました。

しかし、ポーランドに暮らしてからポーランド史を学んだり、ポーランド人の義両親の実体験を聞きながらやっと想像できるようになってきました。

第一次世界大戦前は100年以上にもわたって他国に不当に分割され、やっと独立したかと思えばドイツに戦争を仕掛けられ、破壊され続けたポーランド。

戦争が終わったら終わったで今度はソ連に支配されるという…。この国がいったい何をしたと言うのでしょうか。

共産主義というと、どことなくクールな印象を抱いたり、そういった街並が好きという人もいると思いますが、義両親から苦労話をたくさん聞いてきた私には口が裂けてもそんなことは言えません。

彼らはもう笑い話にしていますが、どれだけ凄まじい時代であったかは当記事を読めば分かっていただけるでしょう…。

7分で分かるポーランドの歴史!建国から独立まで

2016.11.14
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このページの目次
1. 買った車に血が付いていた
2. 生活必需品は配給制
3. 友人家族が続々と国外逃亡
4. 外貨があれば何でも買えた
5. 金よりコネと人脈が大事
6. 最後に…この記事のまとめ

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買った車に血が付いていた

買った車は見るからに事故車

これは数ある共産主義時代の苦労話の中でも、私が最初に衝撃を受けた話。

主人は5人兄弟、いわゆる大家族のもとで生まれ育ちました。問題の車を買ったのは、5番目の子どもがまだいなかった6人で暮らしていたときのこと。

当時、両親は家族が増えたので大きい車が欲しいとずっと思っていました。

そして、数年越しにやっとワゴンを手に入れることができたそうです。しかし、もちろん新車や状態の良い車が手に入るはずもなく、やって来たのは西ドイツから流れてきた事故車でした。

しかも勢いよくぶつかったのかフロントガラスは粉々に割れていて、血が付着したまま。それをみんなで綺麗にして新しいガラスに張り替えたそうです。

事故車でもこれを逃せば、いつまた車が手に入るか分からない…。

当時のポーランド国民に選択の余地などありません。そんな車に乗るなんて日本人の皆さんには考えられないでしょうが、この時代では目の前にあるすべてをただ受け入れるしかなかったのです。

 

生活必需品は配給制

配給カードの例 gry.pingwin.waw.pl

さきに紹介した話からも分かるように、当時のポーランドでは慢性的な物不足に国民達は常に悲鳴をあげていました。

そこで誰かが買いだめをしないよう、食品の多くは配給制だったそうです。

例えば、肉、卵、牛乳、砂糖、小麦粉用の配給カードが国民それぞれに配られるのですが、次第に食料だけでなく洗剤、トイレットペーパー、ガソリンと様々なものに適用されていきました。

あるときは1,600万人の市民たちが肉の購入を月3キロまでに制限され、政府は国民から肉を遠ざけようとしているのではないかという噂まで流れました。

それも3キロ分が手に入る保証などありません。お母さんはぐずる子どもを連れてでも、長い列に数時間と並ばなければ肉を買うことができなかったそうです。

トイレットペーパーを買うために30キロ以上も離れた街まで行かなければならなかったこと、小麦粉すら満足に買えず子どもたちの誕生日ケーキを作ってあげれなかったこと、そういった話を聞いていると本当に心が痛くなります

 

友人家族が続々と国外逃亡

もうこんな国に住めない…

主人一家は脱出を計画したことはなかったようですが、周りの友人家族は次々と西ドイツやアメリカに逃げていったそうです。こんな体制の国家では、希望も将来性も見えてこなかったのでしょう。

しかし、共産圏からの脱出や亡命など一筋縄にはいきません

パスポートすら自由に持つことが許されない中、研究目的やそういったビジネスでもない限り国外へ出ることは許されないのです。では、どうやって彼らは共産圏から脱出したのでしょう?

ある友人家族は同じ共産圏内のユーゴスラビアへ旅行と称して渡り、そこから船でこっそり脱出したそうです。

そして行きついたのは自由の国、アメリカ。さぞ嬉しかったでしょうねぇ。

友人家族は数年に一度だけ夫婦でポーランドに帰ってきては、仲の良い義両親の家に遊びに来ます。もうすっかりアメリカ人体型になっていますが…。

共産主義時代はアメリカから服を段ボールいっぱいに送ってくれたそうで、その一部は今でも着ています。ポーランド人は古いものを長く大切に使う人が多いですが、これは共産主義時代の生活とも深く関係しているに違いありません。

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外貨があれば何でも買えた

でも外貨を持つのは違法だった

主人の父は大学という国立機関で研究者として働いていたので、最低限の住居と生活環境は与えられていました。

しかし、5人の子どもを養うにはかなりの苦労をしていたそうです。給料の額もとても満足のいくものではありませんでした。お金があってもモノが買えない時代ではありますが、それでもお金があるのに越したことはありません。

というのも、当時のポーランドは深刻な供給不足に陥っていたにも関わらず、アメリカドルさえあれば何でも買えるという闇市が存在していたのです。

ただ、問題はどうやってドルを手に入れるかですよね。外貨を持つことは違法であったため、今のように両替所でかんたんに手に入るわけでもありません。

そこで登場するのがチンクチャシュと呼ばれる闇の両替商。彼らは銀行の近くでドルを求める客を待っては、実際の10倍近くのレートでポーランド通貨のズロチと交換してくれたそうです。

いい商売のように聞こえますが、違法なのでハイリスクハイリターンの職業であったことには間違いありません。

お母さんは結婚式のとき、綺麗なドレスを買うお金はとてもありませんでしたが、その代わり真っ白なベールだけ4ドルで購入したそうです。一生に一度の花嫁姿、それはそれは真っ白なウェディングドレスを着たかったでしょう…。

 

金よりコネと人脈が大事

コネがなければもう絶望的

この時代を切り抜くには、何よりもコネが大切だったと義両親は言います。

お金があってもモノが買えない、配給など気にせず買いたいのなら非合法にドルを入手しなければならない。しかし、その交換レートは法外ときた…。

数ドルくらいのものは頑張って買えたとしても、家具や家電製品を手に入れるのは夢のような話です。義両親は、家具や家電製品を一式揃えるだけで5年以上も翻弄することになりました。

お店の人には「もし洗濯機を入荷したらすぐに教えて欲しい」と伝えるも、そんなエコヒイキをしてもらうにも賄賂が必要なのです。賄賂はお金だけではなく、食べ物や服だったりしました。

あるとき、偶然2つの食器棚を見つけたお父さんは「30分以内に戻ってくるからこの2つをキープしてほしい!」と伝え、大急ぎで家へ帰ったそうです。

そして、ご近所さんに「明日には必ず返すから」と大金を貸してもらい、お母さんを連れてお店に戻りました。

銀行で長い行列に並ぶ時間すらなかったのです。とにかく誰かが買ってしまう前に自分たちが買わなければならない。

こうして無事に食器棚を手に入れることができたそうですが、もう1つの食器棚はお母さんの実家に買ったもの。

私たち夫婦がインターネットで家探しをしていたとき、まったく同じタイプの食器棚が置いてある部屋の写真がありました。それを見た私たちが、「ああ、この人も苦労して買ったんだろうな」と感じたのは言うまでもありません。

 

最後に…この記事のまとめ

それでもポーランドが好きだ!

同じ第二次世界大戦の敗戦国でも戦後の日本は高度経済成長を遂げ、目まぐるしく発展していきました。

一方、その頃のポーランドは空から爆弾が落ちてくる心配はないにせよ、需要と供給がまったく追いついていない戦時中のような貧しい暮らしを強いられていたのです。最初にこれらの話を聞いたときはジョークかと思うほど衝撃的でした。

今、戦争を語る人々がわずかになっているよう、共産主義時代を語れる人も今後どんどん減っていくでしょう。

そんな中で最も忘れてはならないことは、80年代の民主化運動で社会主義政権と戦った人々ではないでしょうか。

そして多くのポーランド人が祖国から逃げてしまった一方、この国に残った人々がこんなにもポーランドを愛し続けていることに何よりも嬉しく思います。
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今日のポーランド語

solidarność

solidarność(ソリダルノシチ)は「連体」という意味を持ちます。

1980年、全国規模の労働組合として結成された “Solidarność” は、ポーランドにおける民主化運動において大きな役割を果たしました。これについては1本記事が書けるので、またの機会にお話ししようと思います。

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
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1 個のコメント

  • 青木 孝之 より:

    青木です。
    いつものように、旅行に備え、綾香さんのナビを見ていたら、この記事を見ました。
    私の亡くなった祖母から聞かされた日本の戦時中の話と凄く似ており、胸が苦しくなりました。人々を苦しめるのは戦争だけではない。
    しかし、そんな祖国を愛し守るポーランドの人々。益々会って見たくなりました。

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