7分で分かるポーランドの歴史!建国から独立まで



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ポーランドは今年2016年で建国1050周年を迎えました。

私から言わせてもらうと、最初のポーランド王国、中世のポーランド・リトアニア共和国、そして今のポーランド共和国に生きるポーランド人達の根本的な部分は今も昔も大きく変わりません。

それは、国を守ろうとする信念です。

ポーランドはドイツとロシアの間という不幸なロケーションも相まって、凄まじい苦難を経験し、一度は120年以上にわたって地図から消されました。しかし、今なおここに存在しています

11月11日はポーランド独立記念日でした。これを機会にポーランド建国から独立までを振り返ってみませんか?

今年で98回目 11月11日はポーランド独立記念日

2016.11.11

 

ポーランドは10世紀に誕生

ちょっと勉強しましょう

ちょっとだけ、勉強しましょう

ポーランド王国の基礎が成立したのは10世紀、966年の出来事です。

それから16世紀まではピャスト朝とヤギェウォ朝という2つの大きな王朝に支えられ、ポーランドはヨーロッパで大きな勢力を誇る国となりました。

神聖ローマ帝国やドイツ騎士団で頭を抱えることになるのは建国当初から近世まで変わりませんが、最初に破滅的なダメージを与えたのは意外にもモンゴル軍です(1241年のモンゴル侵攻)。

13世紀に建設された要塞 in クラクフ

13世紀に建設された要塞 in クラクフ

しかしこの打撃を機に市壁を二重に建設したり、どの方角からも攻撃可能である円形の砦を造るなど、数百年かけて国の防御を完全なものとし、ポーランドは確実にパワーアップしました。

ポーランドの壮絶な歴史1 ポーランド初期

2015.11.30
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ドイツ騎士団を倒して勢力拡大

タンネンベルクの戦い

タンネンベルクの戦い 1410年

最初のこの国での注目すべき大きな戦いは、タンネンベルクの戦い(ポーランドでは、グルンヴァルトの戦いで知られています)で間違いないでしょう。

14世紀に国王カジミエシュ3世が男子を儲けることなく亡くなり、ポーランドでは最初の王朝が途絶えます。その頃、リトアニアでもアルギルダスという中世リトアニアの君主が亡くなりました。

つまりこの頃、一時的に互いの勢力が弱まっていったのです。それでも容赦なく侵攻を繰り返すドイツ騎士団…。

ここでポーランドとリトアニアは同君連合を掲げ、「共にドイツ騎士団に対抗しよう」と一致団結しました。非常にドラマのある戦いなので、また別の記事でご紹介できればと思います。

結果、ポーランド・リトアニア連合軍が勝利をおさめ、両国はさらに勢力を拡大。ハプスブルグ家やモスクワ公国を脅かすほどの支配力となり、ドイツ騎士団は西プロイセンを失い衰退しました。

そして1572年になるとヤギェウォ朝の王位継承が途絶え、この時から国王は選挙で選出されることになります。

 

ヨーロッパ最強の国が誕生

共和国最後の国王選挙のようす

共和国最後の国王選挙のようす

ヤギェウォ朝が断絶する前、ポーランド王国は今後のポーランドのあり方について革命的な決定を下しました。

それは、「ポーランド王国とリトアニア大公国をポーランド・リトアニア共和国として統合させ、今後は両国共通の選挙で君主を選ぶ」というもの。

この合同をきっかけに両国は1569年から1795年まで共和国を名乗り、最初の国王自由選挙では後にフランス王となるアンリ3世が選出されます。

色のついている部分が当時の共和国

色のついている部分が当時の共和国

2つの国が併合されたことで共和国の領土はヨーロッパ最大となり、ポーランド史上最も華やかな時代を迎えました。

赤点線の国境は現在の国境ですが、現在のウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストアニア、一部ロシアまでをも領土とし、その巨大さは一目瞭然です。

しかし共和国時代は賄賂が横行し、よそ者が共和国の政治に介入するようになります。また、南からオスマン帝国が攻めてきたことで軍事面でも苦悩が続き、国の予算も底をつくようになりました。

共和国最後のヒーローは、国王ヤン3世ソビエスキ。彼はオスマン帝国を撃退したことで大きな快挙を成し遂げますが、皮肉にも彼の死後、共和国はさらに衰退の一途を辿ることになります。

欧州を救ったポーランドの英雄 ヤン3世ソビエスキ

2016.07.11

ポーランド分割はなぜ起きた?消えた123年間

2016.07.07

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ポーランドが消されていく

三度の分割でポーランド消滅

三度の分割でポーランド消滅

ここまではザックリまとめましたが、もちろんもっと色んなことがありましたよ。気になる方は、ポーランドの歴史カテゴリーを覗いてみてください。

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さて、ポーランドは衰退の一途を辿ったと説明しましたが、その先に待ち受けていたのが「ポーランド分割」でした。

1772年、弱体化したポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって、国土の約4分の1と人口の35%を失います。国家資金不足に軍事力不足、他国の政治介入で政治を荒らされ、もはや抵抗する術もなく、ポーランドは渋々と領土譲渡を承認しました。

ポーランドはこの一度目の分割後、国政改革を行うことで国家の維持に努め、最後の国王はヨーロッパ初の憲法を制定します。憲法に基づき選挙王制はやめてザクセン家の世襲制とし、共和国は単一国家のポーランド王国に戻りました。

しかし、新憲法を嫌ったロシアがまたもや介入。プロイセンも分け前を要求し、ポーランドでは第二回の分割を承認するかどうかの選択を迫られました。

ポーランドも最初はロシア軍と戦うことによって激しく抵抗しますが、ロシアの勢力は圧倒的で対抗できないまま承認については沈黙を貫き、それは分割への同意と見なされてしまいます。

こうして1793年、ポーランドは面積にして25万平方キロを失い、残された領土はたったの20万平方キロとなり、人口は400万人となりました。

コシチューシュコのクラクフ蜂起

クラクフの中央広場に立つコシチューシュコ

この頃、ポーランド議会は存在していましたが、事実上はロシアの属国なので意見するほどの力はありません。

ここで立ち上がったのがポーランド分割時代の英雄であるタデウシュ・コシチューシュコという軍人。彼は二度目の分割がなされる前、ロシア軍と戦っていました。しかしポーランドはロシアとの戦いに停戦を申し出たため、フランスへ亡命。そこでポーランドの窮状を訴え、フランスの支援を約束させます。

コシチューシュコの丘からクラクフの街並を一望

2016.07.27
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二度目の分割で国家機能を失った祖国に戻ったコシチューシュコ。

彼は1794年3月24日、クラクフの中央広場で蜂起宣言を発しました。この時、彼はこう述べたといわれています。
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愛国者
我々はシュラフタ(貴族)のためだけに戦うのではない。全民族の自由のために戦うのだ―

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こうして愛国者は農民を率いて義勇軍を結成し、ロシア軍と潔く戦い、伝説化されたラツワヴィツカの戦いでは勝利をおさめました。この時の戦いのようすは、ヴロツワフにあるパノラマ・ラツワヴィツカにて見ることができます。

第3回 小人だらけ!ヴロツワフってどんな街?

2015.11.28
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この蜂起の結果、ワルシャワ臨時政府を立てることができ、途中までは成功したかのように見えました。

しかし、結局フランス軍の支援は得られず、ロシア軍にまたしても追いやられ、最終的にはコシチューシュコ自身も負傷して捕虜となってしまいます。

そして1795年、三度目の分割。

ロシアはコシチューシュコの蜂起を見て、これらの反乱を鎮圧するために隣国の領有を提案し、ロシア、プロイセン、オーストリアとポーランド全土の領土を分けることにします。これをもって、ポーランドは完全に消滅しました。

 

ポーランド独立までの悲劇

ナポレオンがポーランドを救う?

ナポレオンがポーランドを救う?

1807年、ナポレオン戦争でフランスの傀儡国家ワルシャワ公国が誕生。

ポーランド人はワルシャワ公国がやがて王国となることに望みをかけ、ナポレオンを絶大に支持しました。ナポレオン軍の多くはポーランド人で構成されており、彼らはロシア軍と戦います。

しかし敗北という結果に終わり、1815年にはナポレオンの失脚。

ナポレオンはポーランド人の士気を高めるために多くの約束をしましたが、結局それらは果たされていません。そのためナポレオンは軍結成の口実にポーランド人 を利用しただけではないのか、とポーランドでは裏切り者扱いです。

確かに、ナポレオンはポーランド人を使うだけ使い、本意かはさておきその見返りを与えることはありませんでした。

解体されたワルシャワ公国はロシアが征服するポーランド立憲王国となり、状況が悪化したのは言うまでもありません。

ポーランド人による反ロシア蜂起

ポーランド人による反ロシア蜂起

1830年、1863年にロシア帝国からの独立を目指し、ポーランド人はまたもや大規模な蜂起を起こします。それらが鎮圧された結果、数百人もの貴族が絞首刑となり、蜂起参加者の十数万人がシベリアに流刑となりました。

1871年、ビスマルクによるポーランド人抑圧政策が始まり、ポーランド文化は掻き消されることになります。

それでもこれらの苦難の時代はポーランド人の連帯意識を強め、カトリック信仰もより堅固なものにしました。

誰もが知るポーランド人といえば…

誰もが知るポーランド人といえば…

この時代の著名人といえば、音楽家フレデリック・ショパン、国民的詩人アダム・ミツキェヴィッチ、国民的画家ヤン・マテイコらですが、彼らは皆ポーランドへの愛国心が強く、ポーランド人としての民度や意識、亡き祖国が築き上げてきた歴史を守ろうとした者達です。

こうして、独立のために戦ってきたポーランド。独立が実現したのは、国家が消滅してから123年後のことでした。

 

1918年 ポーランド独立

独立運動を指導したユゼフ・ピウスツキ

初代国家元首ユゼフ・ピウスツキ

1914年、第一次世界大戦中にロシア革命が勃発すると、ユゼフ・ピウスツキが独立運動の指導者として登場。

ピウスツキはドイツ・オーストリアと協力して軍団を組織し、ロシアと戦いました。しかし、ドイツがロシアに勝ったとしてもポーランド独立の手助けをするつもりがないことに気づき、反ドイツ姿勢となった結果逮捕されてしまいます。

この時、独立のために命がけで戦う彼を知ったポーランド人達はピウスツキに熱い期待を寄せていました。

1915年にはドイツ軍がポーランドに侵攻しましたが、ロシアは対抗できずにポーランド全土を放棄しました。ポーランドはドイツの占領下に入りロシアからは解放されますが、1918年にドイツは敗戦国となってしまいます。

ヴェルサイユ宮殿 in パリ

パリのヴェルサイユ宮殿

その後、1919年にパリで「ヴェルサイユ条約」が結ばれました。

この条約が結ばれたのはパリ講和会議で、その会議には日本を含む5大国を中心に合計32ヵ国が出席しています。

会議の目的は「世界平和の統一機関をつくって、二度と第一次世界大戦のような悲劇は生まないようにしよう」という平和主義のもとで行われました。

ヴェルサイユ条約は戦争末期に米ウィルソン大統領が唱えた「14ヵ条の原則」を基本原則とし、条約には「民族自決」が盛り込まれていました。

帝国主義のもとで他国の領土や植民地とされた各民族集団が、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする権利です。

ポーランド

ポーランド第二共和国の領土

こうして1918年11月11日、めでたくピウスツキ(ドイツ革命の混乱時に出獄)を初代国家元首としてポーランド第二共和国が誕生したのです。

ヴェルサイユ条約でポーランドがドイツから得た領土は、ポズナンと西プロイセン、(後にヒトラーがポーランドに戦争を仕掛ける口実となった)ポーランド回廊と呼ばれた地域。ピンクの部分が現在のポーランド領土、赤線で示された国境が第二共和国時代のものです。

翌年1月には内閣が発足し、1939年の第二次世界大戦勃発まではこれらの領土を維持することができました。

新生ポーランドでは議会制民主主義を採用することで立て直しを図りますが、実は常に危機的状況だったようです。それは国家の存続問題ではなく、小党派が乱立して政治が機能していなかったり、また経済的問題から来るものでした。

ヴァヴェ大聖堂地下にあるピウスツキの棺

ヴァヴェル大聖堂にあるピウスツキの棺

しかし、ピウスツキは1935年にこの世を去るまでの間、ポーランド国民からの絶大な人気を得て最後まで独裁的な政治を行います。独裁とはいっても彼は反ユダヤ主義に否定的であり、またポーランドが多民族国家として育つように考えていました。そのため、国内のユダヤ人からも支持されていたようです。

さて、独立までお話ししたので続きはまた今度にしましょう。

皆さんには、ポーランドが独立したのはまさにポーランド人の国を守り抜くという精神から来るものだと分かっていただけたと思います。ポーランド人の意識と団結がここまで強くなければ、ポーランドが甦ることはなかったでしょう。
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今日のポーランド語

historia

historia(ヒストリア)は「歴史」という意味です。今回ご紹介したのは、Historia Polski(ヒストリア  ポルスキ:ポーランドの歴史ですね。では、「日本の歴史」は何と言うでしょうか。

正解は、Historia Japonii(ヒストリア  ヤポニ)です。「国」の部分は、生格となることを覚えておきましょう。

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
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4 件のコメント

  • 大滝史郎 より:

    大変勉強になりました。ありがとうございました。

    • Ayaka より:

      私も書きながら頭の整理に役立ちました!たまに自分でも読み返しています。

  • まどか より:

    ポーランドに旅行に行こうと考えていたところなので、とても助かりました!ありがとうございます。

    • Ayaka より:

      まどかさん

      はじめまして。
      ブログを運営している綾香です。
      コメントありがとうございます。

      このブログを通して、一人でも多くの方がポーランド旅行を楽しまれることを願っています!
      今後ともどうぞよろしくお願いします。

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