ポーランド分割はなぜ起きた?消えた123年間



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昔のヨーロッパは領土・権力争い。

ポーランド王国も他国を攻めることによって自国の領土を広げ、17世紀はまさに黄金期とも言える時代でした。

しかし、隙を突かれたポーランドはプロイセン・ロシア・オーストリアに3度にわたって分割され、その後123年間地図から姿を消すことになります。
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このページの目次
1. 分割前のポーランド
ポーランド・リトアニア共和国
ルブリン合同
マグナートとシュラフタ
2. 背後に迫る3つの影
選挙王政が原因だった
ヨーロッパ初の憲法誕生

 

分割前のポーランド

プロイセン・ロシア・オーストリアがポーランドを3つに分け、それぞれを自国の領土としたポーランド分割。

この時代はポーランドという国すら存在しなかったのですが、その前のポーランドは周辺のヨーロッパを脅かすほどの大国でした。とはいっても、ポーランドは今も昔も平和を愛する国なのですが。

さて、その大国の名は…

 

ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国とは、1569年から1795年の226年間存在した複合君主制国家です。

複合君主制というのは、君主(国家を治める最高位の人)を持つ複数の国が1つの国として構成され、かつそれらの君主が同一人物である体制をいいます。

13世紀に誕生したリトアニア大公国が15世紀にはヨーロッパ最大の領土を持つ大国にまで成長し、16世紀には同じく大国であったポーランド王国と複合されたのが1596年のこと。

きっかけは、ポーランドの歴史を大きく左右した “ルブリン合同” でした。

14世紀、ヤドヴィガとヤギェウォの間で結ばれたクレヴォ合同が更に発展し、ついには新たな大国、ポーランド・リトアニア共和国が成立したのです。

ヤギェウォ朝が成立するまで翻弄されたヤドヴィガ

2016.05.05
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ポーランドが併合した?

よく「ポーランドがリトアニアを併合した」と聞きますが、ちがいます。

このルブリン合同には論争があったとはいえ合意の元ですし、リトアニアも共和国になることでだいぶ得をしています。ポーランドはリトアニアを同化したなんていうのは大きな間違いで、ポーランドが強制したことといえばカトリックへの改宗でしょうか。

しかし中世のヨーロッパは、キリスト教ではないだけで攻められたのでリトアニアが改宗するのは時間の問題だったでしょう。それを証拠に、今のヨーロッパを見ても自然宗教を主な信仰とする国などありません。

当時のリトアニア人にとってポーランド語を話すというのは流行りだったそうで、自ら話しだしたようですし(ポーランドは強制はしていません)、人口比率からしてポーランド人の方がずっと多かったので同化されたように見えたのではないでしょうか。

 

ルブリン合同

ポーランドを少し知っている方ならルブリンという名は聞いたことがあると思います。ルブリンは今も残る、ポーランド南西部にある街の名前ですね。

第7回 黄金時代の幕開け ルブリンってどんな街?

2016.08.31
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Nicholas by flickr

Lublin by Nicholas on flickr

1569年に成立したルブリン合同、内容は「ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国として統合し、今後は両国共通の選挙で君主を選ぶ」といったものでした。

なぜ、合同が必要だったのか…

実はヤギェウォ朝の最後の王となったジグムント2世には、3度の結婚にも関わらず子どもを儲けることができず、ヤギェウォ家は断絶寸前でした。

ここで周りの者は、「彼が亡くなったらリトアニアとの国交が弱まってしまうのではないか」という懸念を抱きます。

そこでヤギェウォ家が断絶した後でも両国の関係が強固なものであるよう、打開策を練る必要がありました。

それがルブリン合同だったのです。

補足説明 ちなみに…

ヤギェウォ朝の初代国王となったヴワディスワフ2世(ヤギェウォ)はリトアニアの君主であり、妻はピャスト家の親戚にあたるヤドヴィガでした。

ヴワディスワフ2世自身がリトアニア人なので、一見リトアニアとポーランドは切っても切れない関係に思えますが、彼がポーランド王となりカトリックとして洗礼を受けた時点でポーランド人と見なされています。

また、当時のリトアニア大公国はモスクワ・ロシアとの戦い(リヴォニア戦争)が悪化しており、このままではモスクワ側に合併される恐れがありました。

しかしポーランドと合併すれば、援軍を送ってくれるということでリトアニア側にも大きなメリットがあったんですね。

 

マグナートとシュラフタ

ルブリン合同もすんなりと調印されたわけではなく、長いいざこざがポーランドとリトアニアの両国でありました。

それはリトアニアのマグナートとポーランドのシュラフタの間での論争。

ポーランドのシュラフタ

ポーランドのシュラフタ

平たく言えば、マグナートとは大金持ち、シュラフタは貴族。マグナートはとにかく大金持ちで、富と権力がある人物を指します。貴族でもお金でモノを言わすくらいの権力があればマグナート。

対して貴族であるシュラフタは、必ずしも富を持っているとは限りません。

シュラフタの多くは地主で、その血筋に生まれたからシュラフタなのであって、お金持ちとは限らないためシュラフタにおけるマグナートは一握り。マグナートには富みさえ築けばなれますが、シュラフタには努力をしてもなれません。

カジミェシュ3世

カジミェシュ3世

シュラフタ身分を定めたのは14世紀、ピャスト朝最後の王となったカジミェシュ3世でした。彼は、ある土地にそれぞれのシュラフタを起き、彼らを騎士としてその土地を守らせたのです。

しかし、やがてシュラフタの騎士団を形成する力が大きくなり、ポーランド王が領土拡大のため周辺諸国と争うごとにシュラフタの軍事協力が必須となってきました。そこで王はその都度全国のシュラフタを招集し、議会を開いて彼らの了承を得るようになったのです。

議会(セイム)とは

ポーランド王国の議会は、シュラフタの代表とマグナートから成るものでした。ヤギェウォ家が断絶してから選挙王政となったポーランドは、これまでとはまったく違う方法で政治を行います。国王は何をするにも議会を開く必要があり、しかも意見が満場一致しなければ議会はやり直し。1人でも反対すれば法案は認められず、また議会の解散となりました。17世紀半ばはこのルールの乱用が目立ち、ポーランドは無政府状態に陥ります。

富がなくても権力のあるシュラフタとお金で権力を操るマグナートが議会でにらみ合うのは無理もありません。

リトアニアのマグナートは金持ちでもないシュラフタと同じ身分にされること嫌がり、シュラフタはそんなリトアニアに援軍を派遣すること渋っていました。

しかし1569年7月、なんとかポーランドが若干の妥協をする形でルブリン合同の調印が行われます。

 

背後に迫る3つの影

国王ジグムント2世はポーランド・リトアニア共和国という、当時の欧州では最大規模の国家を誕生させました。

色のついている部分が当時の共和国

色のついている部分が当時の共和国

そして200年以上もの間、ポーランドは領土だけはものすごく広い、一見華やかそうな時代を迎えるのです。

この間の出来事はまた別の機会に紹介したいと思いますが、ではなぜ、この共和国時代が途絶えてしまい、さらにはポーランドが地図から姿を消す運命になったのか…説明していきましょう。

 

選挙王政が原因だった

分割をされる前のポーランド・リトアニア共和国は1572年、国王の選出方法を大胆に変えました。

ヤギェウォ家が断絶したことをきっかけに王家による代々の王位継承形式をやめ、選挙王政としたのです。

共和国最後の国王選挙のようす

共和国最後の国王選挙のようす

このことで地方のシュラフタが勢力を持つようになり、賄賂が横行、諸外国の国王選挙への干渉が盛んになりどんどん国家の政治が腐敗していきました。

まさに隙だらけの状態です。

この時は国王の選出をめぐってロシア、プロイセン、オーストリア、フランスまでもが候補と上がり、間もなくポーランド継承戦争まで勃発しました。

ポーランド継承戦争とは

1733〜1735年まで続いたポーランド王国の王位継承をめぐって勃発した戦争。ロシア・オーストリア連合とフランス・スペイン・サルデーニャ(イタリアのピエモンテ地方とサルデーニャ島、フランスのサヴォワとニースを主な領土とした国家)らが争い、この戦争によってポーランドの力はさらに衰えたと言われています。

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それに加えて、北方戦争も勃発。

スウェーデンとも王位継承問題を抱えていたポーランドは、バルト海の支配をめぐってロシア、デンマークと共にスウェーデンと戦うことになります。

この戦争はスウェーデンと交戦国が講和条約を結ぶことによって終りましたが、ポーランドは以後も続く戦争によって軍事能力を消耗し、倒れる寸前でした。
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私の夫
本当にポーランドは今も昔も最悪なロケーション。ドイツもロシアもとんでもない国だけど、この時のスウェーデンはバルト海を制覇したいがために、たまたまバルト海に接していたポーランドや近隣の国を攻めて多くの宝を奪ったんだよ。バイキングだけに。

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こうして政治だけではなく軍事的・経済的にも力が弱まったポーランドが、プロイセン・ロシア・オーストリアの大国に狙らわれたのも当然といえば当然。

そして隣国の影に気付いたときには、身動きができない状態だったのです。

と、ここでどうにか持ち直そうと分割前の最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは踏ん張りますが、結局失敗に終わりました。

しかし、彼が残した大きな功績が1つ。

 

ヨーロッパ初の憲法誕生

それは、ヨーロッパ初の憲法を制定したこと。米国に次ぐこの憲法は1791年に策定され、5月3日は憲法記念日として現在の祝日になっています。

5月3日憲法の原稿原本

5月3日憲法の原稿原本

この憲法によって、市民とシュラフタは政治的に平等と定められ、また議会の諸制度のうち弊害があったものは見直されました。無政府状態だったポーランドに明かりが差した瞬間だったのです。

しかし、時すでに遅し。

これが原因でポーランド分割を招いた戦争が始まり、敗戦したことによって分割をされた…という風に言われたりもしますが、どっちにせよポーランドは分割される運命だったのでしょう。

憲法制定が危険思想と見なされ分割を早めた可能性はありますが、ポーランドがもうそこまで落ちてしまっていたのは事実です。彼のせいではありません。

そして、やがて憲法は「亡くなった母国(分割前のポーランド)の最後の遺言だった」と言われるようになりました。

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今日のポーランド語

Rzeczywiście

Rzeczywiście(ジェチェヴィシチェ)は「本当に」という意味です。

“Rzeczywiście, piękne”(本当にきれいだね)という風に強調の役割があり、英語でいうならば “indeed” でしょうか。Oczywiście(オチェヴィシチェ:もちろん)と少し音が似ていますね。

 

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あやか
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