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ポーランド分割はなぜ起きた?地図から消えた123年間

ついに現実となったポーランド分割
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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最終更新日:2020年2月10日

1772年8月5日、ロシア・プロイセン・オーストリアは、サンクトペテルブルクにてポーランドの分割に関する条約に署名しました。

これら三国がポーランドを分けてそれぞれの領土としたのが「ポーランド分割」であり、1795年の三度目の分割をもって、ポーランドは123年間も地図から姿を消すことになります。

それまではドイツとロシアの大国に挟まれながらも存在する強国であり、またスウェーデンやオスマンからの侵略にも耐え、決して他国から消されそうなほど弱々しい国ではありませんでした

ではなぜ、そのようなことが起きたのか?
分割が行われる前のポーランドの歴史に触れながら、悲劇が起きた原因を探っていきましょう。
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このページの目次
1. 分割される前のポーランド
ルブリン合同で生まれた共和国
貴族の間で起こったいざこざ
共和国時代の広大すぎる領土
2. 共和国が衰退した主な原因
原因その1…選挙王制
原因その2…国家資金不足
原因その3…度重なる戦争
そしてポーランドは地図から消えた

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分割される前のポーランド

ポーランド・リトアニア共和国の国旗

地図から消える前のポーランドの正式名称は「ポーランド・リトアニア共和国」といい、1569年から1795年の226年間存在しました。

この共和国は、君主を持つ複数の国(ポーランドとリトアニア)が一つの国となり、それらの君主が同一人物という体制をとっていました。

13世紀に誕生したリトアニア大公国が15世紀には欧州最大の領土を持ち、16世紀にポーランド王国と複合されたのが1569年。
このポーランド・リトアニア共和国が強国としてヨーロッパに与えてきた影響は計り知れません。
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ルブリン合同で生まれた共和国

Marcello Bacciarelli『ルブリン合同』

14世紀、ポーランド国王ヤドヴィガ(女性でありながら国王)とリトアニア君主ヤギェウォの間で「クレヴォ合同」が結ばれました。

こうしてヤギェウォはポーランド・ヤギェウォ朝の初代国王となり、洗礼後はヴワディスワフ2世という名前で呼ばれるようになります。
妻となったヤドヴィガはヤギェウォ王朝の前の王朝となるピャストの親戚にあたり、結婚後は二人が国王としてポーランドを統治していました。

1569年に結ばれたルブリン合同は、このクレヴォ合同をさらに発展させたものです。

ヤギェウォ朝最後の国王ジグムント2世は三度の結婚でも子どもができず、断絶寸前でした。
断絶したらリトアニアとの国交が弱まる……。
そんな懸念が生まれ、ポーランドは両国との関係が強固なものであるよう打開策を講じます。

また、当時のリトアニアはロシアとの関係が悪化し、モスクワに合併される恐れがありました。
しかしポーランドと合併すれば援軍を送ってくれるということで大きなメリットがあったのです。

つまり、ルブリン合同は「ポーランド王国とリトアニア大公国を共和国として統合し、今後は両国共通の選挙で君主を選ぶ」といったものでした。

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わたし
このルブリン合同で「ポーランドはリトアニアを同化した」と言われることがありますが、論争があったとはいえ合意の元で行われたのは確かです。

当時のリトアニア人にとってポーランド語を話すのは流行りであり、ポーランド側が強制せずとも自ら話しだしました。また人口比率ではポーランド人がずっと多かったので同化されたように見えたのではないでしょうか。

ポーランドは自然宗教のリトアニアにカトリックへの改宗を促しましたが、中世のヨーロッパはキリスト教ではないだけで攻められました。リトアニアの改宗は時間の問題だったでしょう。

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貴族の間で起こったいざこざ

ポーランドの貴族たち

合同の調印には、長いいざこざがありました。
リトアニアのマグナート(大貴族)とポーランドのシュラフタ(貴族)の間での論争です。

マグナートは莫大な富や資産を持ち、お金でモノを言わすほどの権力があります。
対してシュラフタはその血筋に生まれたからシュラフタなのであって、決して金持ちとは限らないため、シュラフタにおけるマグナートは一握り。

しかしマグナートには富さえ築けばなれますが、シュラフタには努力をしてもなれません

金がなくても地位のあるシュラフタと、富で権力を操るマグナートはまさに犬猿の仲。
リトアニアのマグナートは一部の貧しいシュラフタと同じ身分にされること嫌がり、シュラフタはそんなリトアニアへの援軍派遣を渋りました。

しかし1569年7月、ポーランドが若干の妥協をする形でルブリン合同の調印が行われます。
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Kazimierz
私は14世紀の国王、カジミエシュ3世だ。ピャスト朝最後の国王であり、カジミエシュ大王とも呼ばれている。

シュラフタ身分を定めたのはこの私。広大な領土を守るためにそれぞれの土地にシュラフタを置くことにしたんだ。シュラフタを騎士として土地を守らせた、つまりは地主だな。

だが私の死後、シュラフタの騎士団を形成する力が大きくなって、国王が領土拡大のため周辺諸国と争うごとにシュラフタの軍事協力が必須となったそうだ。これは想定外だったな。
(国王は争いが起こると全国のシュラフタを招集し、議会を開いては彼らの了承を都度得る必要がありました)

 

共和国時代の広大すぎる領土

色のついている部分が当時の共和国
色のついている部分が当時の共和国

こうして誕生したポーランド・リトアニア共和国、この地図を見ればその大きさは一目瞭然。

現在のリトアニアとポーランドはもちろん、ベラルーシ、エストニア、ラトビア、モルドバ、ルーマニア、ロシア、スロバキア、そしてウクライナの一部はかつて共和国の領土だったのです。

分割の半世紀から100年以上前にスウェーデンやオスマンと戦ってきたポーランドの英雄たちは、これだけの大国が将来たった数十年で消されてしまうなんて、予想できたでしょうか?

 

共和国が衰退した主な原因

ジグムント2世アウグスト

国王ジグムント2世はルブリン合同によってポーランド・リトアニア共和国という、当時の欧州では最大規模の国家を誕生させました。

そして200年以上もの間、大国だけにさまざまな困難に立ち向かいながらも領土を維持・拡大し、また文化的にも栄えた時代がつづきます。
首都はクラクフからワルシャワへと移り、ますます人口も増え、力も大きくなってきました。

この共和国時代の出来事はまた別の機会に紹介しますが、ではなぜ、こんなにも存在感のある国が地図から姿を消してしまったのでしょうか。
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原因その1…選挙王制

共和国最後の国王選挙のようす
共和国最後の国王選挙のようす

跡継ぎのいないジグムント2世が亡くなった1572年、新たな方法で国王が選ばれました。
ヤギェウォ家の王位継承が不可能となったため、自由選挙で国王を選出したのです(選挙王制)。

最初の選挙で選出されたのは、後のフランス王ヘンリク・ヴァレゼ(アンリ3世)。

ヴァレゼはジグムント2世の妹アンナ・ヤギェロンカと結婚する予定でしたが、若き国王とは年の差が過ぎたのか(28歳差)、戴冠して数年も経たないうちにフランスへ去ってしまいました。

次に、アンナとの結婚を条件にトランシルヴァニア公ステファン・バトレが選出されます。
表向きには妻アンナも国王でしたが、実際には夫ステファン・バトレが政権を握っており、他国との戦いにおいても大きな手柄をあげました。

こうして選挙は続いていきますが、やがて地方のシュラフタが勢力を持つようになり賄賂が横行、諸外国の国王選挙への干渉が盛んになります。

そうなると国家の腐敗も時間の問題。
国王の選出をめぐってロシア、プロイセン、オーストリア、フランスまでもが候補に上がり、大規模なポーランド継承戦争まで勃発しました。
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わたし
なぜ、最初の選挙でわざわざ他国の者を国王に選んだのでしょうか。

選挙権を持つシュラフタから国王を選んだとします。そうすると選出されたシュラフタが力を持ち、結局また王朝になってしまうかもしれない、そんな懸念があったのです。のちに「ヴァザ朝」とか「サス朝」と呼ばれる時代も出てきますが、一見王位継承に見えても選挙で選ばれた国王となります。

 

原因その2…国家資金不足

何をするにしてもお金が必要

共和国の前のヤギェウォ王朝はポーランドの黄金時代とも言われ、平和的でした。

しかしルブリン合同によって領土が広くなると維持費がかさみ、国外出身の国王が統治するようになると他国との戦争も増えてきます。
そうして大規模な戦争がつづいた17世紀半ば、ついに重大な資金不足に陥ってしまいました。

また戦争をするには兵士が必要ですが、傭兵に頼らざるを得なかったというのも大きいです。
兵士を雇うためには莫大な資金が必要で、その給料でさえ滞納するようになってしまいました。

貴族は免税など優遇を受ける代わりに兵役を果たす義務がありましたが、戦争中でもそれぞれの土地を守るために帰ってしまう者が続出。
結果的に貴族の兵士などとても信用できず、わざわざ傭兵を雇わなければならなかったのです。

お金がなければ敵とまともに戦うことはできず、国家が衰弱していくのは目に見えていますね…。
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原因その3…度重なる戦争

スウェーデンに侵略されるヤスナ・グラ修道院

前項でも触れましたが、やはり他国からの侵略や戦争が多すぎたことも国家を疲弊させました。

共和国最初の大戦争といえば、国王ステファン・バトレの時代に勃発したリヴォニア戦争
しかしこの戦争ではロシア皇帝イヴァン4世を敗り、実現はしなかったもののモスクワ大公国と軍事同盟を締結する計画さえ立てていました。

次に国王となったのはスウェーデン王室のヴァザ家から選出されたジグムント3世
父はスウェーデン王ヨハン3世であり、母はポーランドのヤギェウォ家出身のカタジナです。

彼はポーランド王であると同時に父の死後はスウェーデン王位を継承しましたが、ポーランドはカトリックでスウェーデンがプロテスタントだったことに大きな問題がありました。
母の影響で熱心なカトリック教徒であったジグムント3世をスウェーデンが王として受け入れるはずもなく、大規模な戦争へと発展していきます。

それに加えて北方戦争も勃発し、バルト海の支配をめぐってロシア、デンマークと共にスウェーデンと戦うことになってしまいました。
この戦争はスウェーデンと交戦国が講和条約を結んだことで収束しましたが、ポーランドは以後も続く戦争により軍事能力を消耗してしまいます。

最終的に勝利したとはいえオスマンとの戦争も長く続き、17世紀以降は破綻まっしぐら
ただ、そんな状況の中でも数々の勝利を収めてきたのは事実であり、決して戦闘力がなかったとか、絶望的に弱々しかったわけではありません。
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夫Piotr
分割された要因は色々あるけど、結局のところ、まともじゃない隣国に挟まれていたのが痛かった。ドイツとロシアのとんでもない思惑は、ポーランドの斜め上をいってたというか。

まさか「ポーランドをいっしょに分けてしまおう」なんて恐ろしい考え、そう簡単に思いつくことじゃないよ…。

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そしてポーランドは地図から消えた

ついに現実となったポーランド分割

.こうして軍事的・経済的にも力が弱まったポーランドが、プロイセン・ロシア・オーストリアの大国に狙らわれたのも当然といえば当然。

そしてこれら隣国の影に気付いたときには、ほぼ身動きができない状態だったのです。

次の記事では、ポーランドが分割されて消滅するまでの具体的な史実に触れていきます。
祖国が消えていくのを目の当たりにした当時の人々を思うと、記事を書かずにいられません。

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今日のポーランド語

Rzeczywiście

Rzeczywiście(ジェチェヴィシチェ)は「本当に」という意味です。

“Rzeczywiście, piękne”(本当にきれいだね)という風に強調の役割があり、英語でいうならば “indeed” でしょうか。Oczywiście(オチェヴィシチェ:もちろん)と少し音が似ていますね。

 

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あやか
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2件のコメント

キエフ大公 より:

面白いですね
ポーランド、リトアニア王国は、ベラルーシ、ウクライナも構成国も合わせて一つの国だったようですが、貴族と商人か、リトアニアとポーランドなら、ベラルーシ、ウクライナの立ち位置は、どんなものだったのでしょう

Ayaka より:

キエフ大公さん

こんにちは、管理人の綾香です。
ポーランドの歴史は興味深く、私も学んでいくうちにどんどんのめり込んでしまい、今はこの記事を書いたときよりもだいぶ詳しくなっています。
ただ、基本的に現在のポーランド領土に一致する場所のほうが詳しく、リトアニアはともかく東のほうはこれから学んでいかなければなりません。
今は新たな記事を書く時間がないため、また改めてお伝えできればいいなと思っています。
ちなみにウクライナとポーランドは現在問題を抱えているものの、ベラルーシは比較的ポーランドに好意的なようです。
去年の夏に旧ポーランド領のリヴィヴ(現ウクライナ)へ旅行し、そこで感じたこともまた記事にしていきたいと思います。

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