ポーランドの壮絶な歴史2 ピャスト朝



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このカテゴリーでは、ポーランド初期から現代までの歴史を時代の境目ごとに分けて紹介しています。
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前回の「ポーランド初期」の続編として書いているので、前回の記事を読んでいない方は先にこちらをご覧ください。

ポーランドの壮絶な歴史1 ポーランド初期

2015.11.30

 

◆ポーランドの歴史◆

ポーランド初期 966年
ピャスト朝 966年〜1370年
プシェミスル朝
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・
リトアニア共和国 1569年〜1795年
サス朝 1697年〜1763年
ポーランド分割 1772年〜1918年
ワルシャワ公国 1807年〜1813年
ポーランド立憲王国 1815年〜1867年
ポーランド共和国 1918年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜

※ピャスト朝など初期の時代に関しては文献が少ないために複数の説や見解があり、他の方がまとめたものと違う部分があるかもしれません。ここでは一般的にポーランドでよく取り上げられる方の説に基づいて書いています。

 

960-1370 
国としての勢力を増したピャスト朝
最初の首都グニェズノ

当時の首都グニェズノ

992年にミェシュコ1世が亡くなると、息子のボレスワフ1世がトップの座を引き継ぎました。

ボレスワフ1世は992年〜1025年の間は父と同じポーランド公国の君主でしたが、1025年には正式にポーランド王国の初代国王となります。

ボレスワフ1世を王と認めたのは、神聖ローマ帝国のオットー3世。彼は1000年に当時の首都であり最初の首都でもあるグニェズノを訪問し、大司教座をグニェズノに置くことにしました。

実はそのときにボレスワフ1世は冠を授けられていますが、正式に国王として冠を授けられたのは1025年だとする説が有力です。またこのとき、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド王国は国として認知されました。

大司教
カトリック教会の聖職の1つ。教会は地域ごとに教区というもので分けられており、教区は司教によって包括されています。そして、それらいくつかの教区をまとめるのが大司教。

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ボレスワフ1世は軍事に非常に優れており、戦争に勝っていくことで確実に領土を増やしていきました。

たった数年の間にキエフ公国(現在のウクライナ)や神聖ローマ帝国の一部を征服し、各国から恐れられたボレスワフ1世は Boleslaw chrobry勇敢なボレスワフ)と呼ばれ、今日の20ズウォティ紙幣表側の肖像画となっています。

ボレスワフ1世の治世

ボレスワフ1世の治世

濃いピンクの部分はミェシュコ1世が治めた領土、赤線は1025年にボレスワフ1世によって治められたポーランド王国の国境です。全体のヨーロッパの地図ではないので分かりにくいかもしれませんが、今のポーランドより少し小さいくらいで(今のポーランドの面積はEU28ヵ国中6位)、他国と比べると若い国にしてはかなり大きい国でした。

そこまで権力の強さを持つボレスワフ1世でしたが、国王となってからわずか2ヶ月後に亡くなります。

彼の死後は、ボレスワフ1世の息子であるミェシュコ2世が国王を引き継ぎました。こうして1370年にピャスト王家(ミェシュコ1世から続く代)の王位継承が途絶えるまでの410年間、ピャスト朝(王朝)が続きます

しかし、この2代目国王の頃になるとドイツ軍やチェコなどの勢力が増し、領土を増やすことが難しくなりました。それどころか領土を奪われることもあり、当時のポーランドは何度となく他国との領土争いを繰り返したようです。

またミェシュコ2世が国王であったのは9年間と決して長くはなく、1034年には何者かに暗殺されました。そして彼の死後、自然宗教を信仰し続けていた農民が大規模な反乱を起こし、この出来事もあって首都は大混乱に陥ります。

カジミェシュ1世

カジミェシュ1世

ミェシュコ2世の後を引き継いだのは息子のカジミェシュ1世

しかし、ミェシュコ1世が建設した宗教施設や彼の墓までをも荒らす農民の反乱を見た彼はハンガリーへ逃亡します。

そして当時の首都であったグニェズノやポズナン周辺だと政治がうまくいかないことを悟ったため、親戚のいるドイツ(ピャスト家は政治的な策略もあって権力のある他国の王家と結婚することが多かった)へ向かい、ポーランドを建て直すための経済支援を受けました。

こうしてポーランドに戻った後は首都をグニェズノからクラクフへ移し、ポーランド王国の再スタートを試みます。

クラクフが選ばれたのは、当時いくつかある栄えていた都市の中でも唯一、反乱による被害を受けていなかった場所だったから。また、この頃に建設されたのが今なお現存するヴァヴェル大聖堂です。
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カジミェシュ1世の後は、ボレスワフ2世、ヴワディスワフ1世ヘルマン(後のポーランド王、ヴワディスワフ1世ウォキェテク−1320〜1333年と名前が似ているが別)、ボレスワフ3世と続きましたが、その間は大きな事件や争いもなく政治を行っていました。

7つに分割された王国

7つに分割された王国

1138年、ヴワディスワフ1世の跡を継いだボレスワフ3世は、ポーランド王国の領土を7つに分割しました。

シレジア、ヴィエルコポルスカ、マゾフシェ、サンドミェシュ、クラクフの5つに分け、彼の4人の息子と王家の最長老にそれぞれを託すという遺言を残します。これは年長ほど権力があるとする制度で、最高権威者がクラクフ公国を統治することによってポーランドの王を名乗ることができるというものでした。

つまり、ポーランド王国を連邦制国家にさせることを意味します。

ボレスワフ3世はこの分割によって王家内で争うことがないよう複雑な決まりを定めますが、彼の死後、この計画は見事に崩れました。王家内の領土と権力争いが絶えず、やがてこれらの領土は半自立の支配圏(王家内の違う者が治める領土=公国)となり、ポーランド王国は内部でどんどん分裂していったのです。

年長者相続制度はうまくいかず、このような政治に痺れを切らしたポーランド国王ヴワディスワフ2世は自ら退位。

こうして勢力は乱立していき不安定な時代が長く続きました。

 

時は変わって1241年。

モンゴルのポーランド侵攻

モンゴルのポーランド侵攻

この年に突然前触れもなく、ポーランドに思いもよらない敵モンゴルが襲ってきます。王家内の争いはあったものの各都市はそれなりに栄えていたのですが、この出来事でポーランドは一気に衰退

当時のモンゴル軍は現在のロシアにあった国家やキエフを中心とした東欧を圧倒し、その後ポーランドとハンガリーを侵攻しました。彼らは土地を奪うために他国へ侵攻してきたわけではなく、ただ金品となるものを盗むためにポーランドや他国を襲い、荒らすだけ荒らしてモンゴルへ帰ったそうです…。

モンゴル軍の強さは圧倒的。ポーランド軍が勝つ見込みはなく、ヴロツワフやクラクフなどの大都市はなす術もなく荒れ地へと化していきました。

そして最初の侵攻から18年後の1259年、1287年にもモンゴル軍は再びポーランドを襲いました。三度目の侵攻は小規模だったので勝利を収めたものの、それ以前の侵攻でポーランドは既に荒れ果てており何万人ものポーランド人は捕虜として拉致されていました。

こぼれ話
ちなみにモンゴル軍が1274年と1281年に日本を襲った(文永の役と弘安の役:元寇)ことは皆さんもご存知のはず。てつはうの仕組みとか私は未だに結構覚えています…。モンゴルの日本侵攻は日本を服従させるのが目的でしたが、一説によると台風のお陰もあって日本は見事に勝利を納めました。これを神風が吹いたといいます。しかしどっちにせよモンゴルは日本の強さには敵わなかったでしょう。
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ドイツ法を広めるようす

ドイツ法を広めるようす

三度のモンゴル侵攻によって急速な衰退と人口減少を繰り返したポーランド。

そこで、特に栄えていた地域だっただけに被害が大きかったヴロツワフやクラクフ周辺では、その穴を埋めるようにドイツ移民を受け入れるようになります。

ドイツ側も政治がうまくいっておらず国民は重税や政府の弾圧に苦しめられていたので、多くのドイツ人たちは喜んでポーランドへ移り住みました。

そして次第に労働から司法までドイツ法が適用されるようになり、ドイツ式が慣習となっていく一方、ポーランド人たちも多くの都市を建設し、また西欧(ドイツ)の経済的な力を利用しながら着実に復興していきました。

この時の大勢のドイツ移民もあって、今日のシレジア地方ではドイツ人との混血がかなり目立ちます。
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またそれと同時に十字軍からの迫害を受けていたユダヤ人もポーランドに移住をし始めました。移民に寛容で友好的だったポーランドは、ユダヤ人たちにも彼らの都市やシナゴーグを築くことを許し、彼らに自治権まで握らせます

これがクラクフに現存するユダヤ人地区、カジミェシュ。

ユダヤ人とポーランド人は違う宗教を信じる者同士で本来なら敵対してもおかしくはありません。しかしポーランドは、彼らをユダヤ人だからといって迫害する者には重罪を課すなどしてユダヤ人を徹底的に守りぬきました

 

こうして国の活気も取り戻し、モンゴル侵攻から学んだ戦略法を活かして他の軍を倒せるまでに勢いを取り戻したポーランドは、侵攻からわずか数十年でほぼ完全の復興を成し遂げます。

同時に文化的、経済的にも進歩しており、当時の首都クラクフでは今でも現存するポーランド最古の大学、ヤギェウォ大学が1364年に創設されました。スキエニツァ(織物会館)が建設され始めたのもこの頃です。

カジミェシュ3世

カジミェシュ3世

しかしそれから間もない1370年、ミェシュコ1世を筆頭に代々と続いたピャスト王家の王位継承が絶えます。

最後のピャスト朝の王は1333年に即位したカジミェシュ3世

彼の優れた政治能力はポーランドを商業的に発展させる大きな一歩となりました。また軍事の改革をもたらしたことで領土を倍増させ、ヤギェウォ大学を創立することで文化的にも大きな役割を果たし、そして西欧で迫害された多くのユダヤ人を保護し、ポーランドの弱小農民をも救ったという彼の偉業は「カジミェシュ大王Kazimierz Ⅲ Wielki)」と呼ばれるのに相応しいものです。今日の50ズウォティ紙幣表側の肖像画を飾っているのはこのカジミェシュ3世。

しかし、そんな彼の死は狩猟中に落馬したことが死因という、大王にしてはあっけない最期でした。

ここで今まで通りならカジミェシュ3世の息子が跡を引き継ぐところですが、再婚や重婚で4人の妻を持っていた彼が生涯にもうけたのは娘5人。男子がいないとなれば、王家内で最も近い男系親族を採用するしかありません

そこでカジミェシュは孫のスウプスク公とハンガリー人のアンデガヴェン家と結婚をした実姉の息子(つまり彼の甥)、ハンガリー王ルドヴィク1世との間でポーランドを二分するように遺言を残しましたが、分裂状態にあった王国がせっかくまとまってきたところに2人の後継者を置くとまた対立しかねないと判断され、ポーランド国王の座はルドヴィク1世に託されました。

このことをきっかけにポーランドは新しい王朝、ヤギェウォ朝を迎えます。

 

この時代の主な出来事

992年  ミェシュコ1世が亡くなり、息子のボレスワフ1世が継ぐ
1025年 ボレスワフ1世が正式にポーランド王国の初代国王となる
1038年 カジミェシュ1世が首都をグニェズノからクラクフに移す
1138年 ボレスワフ3世によってポーランド王国が7つに分割され、政治がどんどん乱れ始める
1241年 最初のモンゴル侵攻(レグニツァの戦い)
1259年 二度目のモンゴル侵攻
1287年 三度目のモンゴル侵攻
1320年 ポーランド王国の再統合
1364年 ヤギェウォ大学創立
1370年 カジミエシュ3世でピャスト朝が終わりを迎える

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さて、この記事では、ポーランド初期から1370年まで続いたピャスト朝の歴史を書きました。ちなみにピャスト朝が終わった頃の日本は室町時代。1338年には室町幕府が京都に開き、足利尊氏や義満が活躍しました。

1386年からはヤギェウォ朝が始まりますが、ピャスト朝が絶えた1370年〜1385年の間はアンデガヴェン家のルドヴィク1世と娘のヤドヴィガがポーランドの王となっています。

このアンデガヴェン家は、ピャスト朝とヤギウェオ朝の15年間を埋めたピャスト家の親戚に過ぎません。

 

次回の記事では、そのアンデガヴェン家について見ていきましょう。

ポーランドの壮絶な歴史3 アンデガヴェン家

2016.02.28

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
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