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父ミェシュコ1世はポーランドの創始者であり、自然宗教からカトリックに改宗。ボヘミア(現チェコ)の公女を妃に迎えたことでボヘミアと同盟を組んだ。992年の父の死後は息子のボレスワフ1世が跡を継ぐ。1000年に皇帝オットー3世がポーランドに訪れた際、王であるべきだと称賛され、一時的に王冠を授かった。オットー3世の死後は長く戦争に赴き、最終的にはキエフを征服して義理の息子をロシア王位に就かせる。晩年は息子と共同政治を行い、死の直前にポーランド国王として戴冠。
神聖ローマ帝国の第4代皇帝であり、初代オットー1世大帝の孫。4歳でドイツ王に即位し、17歳で皇帝となる。21歳で短い生涯を終えたが、西スラヴ族を幾度となく討ち、ローマでも巧みに反乱を抑えた。1000年3月に親交があった司祭(聖ヴォイチェフ)の墓参りのため、ポーランドの首都グニェズノを訪問。そのとき、ポーランド公ボレスワフ1世(後の初代ポーランド国王)の寛大な人柄と信心深さを大変気に入る。1002年、3度目のローマ遠征で反乱軍制圧中に死去。一説では毒殺。
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皇帝がポーランドを訪れた理由
きっかけとなったのは、ボヘミア出身の聖ヴォイチェフ(956〜997)という殉教者。ヴォイチェフはボヘミアの首都プラハで司教を務めたこともある高位聖職者で、生前はオットー3世と親密な交流がありました。しかしボヘミアでは高位聖職者らの権力争いに揉まれて司教を辞し、ローマに長く滞在した後に祖国へ戻ると、そこにはもう彼の居場所がない状況…。祖国を追われたヴォイチェフは、宣教師としてポーランド・グニェズノ経由でプルシアの地(現ポーランド北東部のグダニスク近く)へ赴きました。そして間もなく異教の地で殉教し、グニェズノに埋葬されます。ローマに滞在していた皇帝はヴォイチェフの死から3年後、ようやく墓参りのためにポーランドへ来ることができました。
▲聖ヴォイチェフは聖アダルベルトともいう
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ボレスワフを気に入った理由
遥々ポーランドへやってきたヴォイチェフをボレスワフ1世は敬意を持って歓迎し、国の長として出来ることは何でも協力しました。しかし、ヴォイチェフは異教徒により殺害されたと聞いて大変悲しみます。ボレスワフ1世は遺体と同じ重さの金と引き換えに、プルシア人からヴォイチェフの亡骸を買い戻してグニェズノの大聖堂に安置しました(1038年にチェコのポーランド侵略で略奪)。後に皇帝はこのボレスワフの素晴らしい行動に感謝します。そして来るグニェズノ訪問の日、想像以上のもてなしと威厳なポーランド公を見て感銘を受けました。皇帝はボレスワフ1世を褒め称え、自らの王冠を彼の頭に置き、さらに皇帝の一部の権限を譲るとともに価値ある品の数々を贈ったと言われます。
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最も価値があった贈り物
よく知られているのは、『聖モーリスの槍』という黄金伝説(新約聖書の外伝)に登場する聖モーリスの聖遺物(聖人が生前に所有していたもの)です。この槍はもともとドイツ王と皇帝の至宝であり、戴冠式やそれに準ずる儀式で使われてきた貴重な宝器でした。これを所有するということは、王位継承者の仲介者になることを指すのです。
もう一つは、初代神聖ローマ皇帝とも言われる『カール大帝の玉座』。これが与えられるということは、オットー3世が次期後継者をボレスワフ1世に選定したことを間接的に示すと言われています。ただし、『聖モーリスの槍』はヴァヴェル大聖堂博物館で実物を見ることができる一方、『カール大帝の玉座』は現物を確認できていません。
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よく学習されていますね。感心しながら読みました。
ありがとうございます (^ ^)
よく、「ポーランドは反ドイツですか?」と聞かれます。その答えではないものの、こういった記事も興味深く読んでもらえるのではないかと思いました。