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このブログではキリスト教に関して多くの記事を書いてきましたが、もっぱらカトリックの祝日や行事に関する内容がほとんどでした。
今回は、今年4月でカトリック洗礼から10年を迎える節目の年ということもあり、今の、信者としての心境を素直に綴ってみたいと思います
結論、教会を離れたいとは思わないものの、確固たる信仰心は未だに芽生えていません。
日曜日や教会の祝日でのミサ参加率は95%といったところで、自主的にというよりは習慣です。
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10年前の若かった私は、さすがにこんなに時間が経てば、夫のように自然に祈ることができるようになると漠然とイメージしていました。
しかし、告解は数ヶ月に1回は行い、たまにしか歌われない聖歌もちゃんと歌えて、日曜日以外も教会で祈ろうと思えるような、そんな絵に描いたようなキリスト教徒になるのは実際、難しい。
それでも気付いたことがあって、信仰というのは、神さまに対する熱く揺るぎない心を常に持ちつづけることでは “ない” と思います。
信仰は「実感」とか「情熱」だけで評価できるものではないし、私の中にある小さな信仰の種はまだしっかりと根を張る前の段階かもしれない。
数年前、遠い知り合いがサスペンスまがいのコトを起こして、ちがう世界線に来たのか?と思うくらい疲れたことがあったんですが、そのときはまるで別世界の教会に心が救われました。
抱えていることは違えどみんな祈りたくて教会に来ているんだと思ったら、祈ることができなくても、その空間にいるだけで落ち着くんですね。

さて、私が洗礼を受けたのはカトリックとして育ったポーランド人夫との結婚が機ですが、洗礼に関しては何ひとつ【強要】はありません。
ただ、私にとっては、夫の名字を名乗るのと同様に「(夫の家族含めて)家族としての一体感を築きたい」という気持ちが強く、夫はもちろんのこと、将来生まれる子どもや愛する人との深い繋がりを意識して洗礼を決意しました。
よく、国際結婚している人の中で「自分は信じ切れないから改宗しない」という声も聞きますが、最初から信じ切るなんて難しい話で、一生かけてゆっくり受け入れていけばいいと思うのです。
もちろん、「自分はキリスト教の信者になるつもりはさらさらない」と言うのであれば、無理に改宗する必要なんてまったくないでしょう。
私の場合、夫が離婚概念のないカトリックじゃなければあんなに早くプロポーズを受け入れられなかっただろうし、たまたま知り合った人がカトリックだと分かると親近感が湧いたりするので(出身地が同じと分かったときみたいな)、洗礼を受けてよかったな、とは心から思います。
最終的に洗礼を受けようが受けまいが個人の自由ですし、改宗が正解とは言いません。
でも、「信じられる自信がないから洗礼はやめよう」と思っているのであればそれは誤解です。
私も、神父さんと一対一で勉強していく中で葛藤があり、夫とぶつかったこともありましたが、その「信じたいけど心から信じられない」という気持ちはいかにも人間らしいですよね。
今でこそ俯瞰して振り返ることができますが、イエスの弟子ですらイエスを否定したり、復活してもすぐには信じられなかったわけで、ゆえに拒絶反応があったとしても不思議ではありません。

昔の記事にも書きましたが、哲学者でもあり数学者としても有名なパスカルが説いた【パスカルの賭け】が、私の背中を押したのも事実。
【パスカルの賭け】とは、「神の存在を完全に証明できないなら、神が存在すると賭けたほうが期待値は高い」という合理的な信仰へのアプローチであり、すなわち、「信じないでいて存在しなければ損も得もないが、もし神が存在したら損失が大きすぎるでしょう?」ということ。
信仰は損得で得るものではなくとも、パスカルの意図は、信じる一歩を踏み出せない人にまず信じてみる理由を与えたかったのだと思います。
「信じる」ではなくて「信じてみる」というスタンスで教会に通うことは悪ではないし、「信仰のある生活を続けてみよう」という仮の足場になるのが【パスカルの賭け】なんです。
宗教問わず揺るぎないものの存在を信じている人たちの姿は尊いし、確信がなくてもその生き方を通して何かが育つかもしれないし、それは打算ではなくて「誠実な模索」ではないでしょうか。
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神が実在する確率を 0.1として、信じる場合のペイオフを+1000(神が存在する)/-10(神が存在しない)、信じない場合は-1000/0とすると、仮に神がいる確率が0.1(10%)でも、信じるほうが損するリスクを避けられる。もっと踏み込んで計算すると、確率が0.5%以上なら信じるほうが得。
①「信じる」場合の期待値(EV B)
EV B = (0.1 × 1000) + (0.9 × -10)
= 100 + (-9)
→ 信じると、平均して+91の得になる
②「信じない」場合の期待値(EV ¬B)
EV ¬B = (0.1 × -1000) + (0.9 × 0)
= -100 + 0
→ 信じないと、平均して-100の損になる
③ 信じるほうが有利になる最低限の確率
信じるほうが有利になるのは、EV B > EV ¬B
不等式を作ると1000p – 10(1 – p) > -1000p
1000p – 10 + 10p > -1000p
= 1010p – 10 > -1000p
= 2010p > 10
= p > 10 / 2010
= p > 1 / 201 ≈ 0.004975 → 0.4975 ≒ 0.5
※ ちなみに、EV B の B は “belief” の頭です


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私自身は、信者でありながらも距離感を持って信仰を語れることにも意義を感じます。
教会やシナゴーグでのご案内や、ポーランドの歴史と文化を紹介するという仕事にあたっては、信仰のディープな価値をわかりやすく、かつ押し付けがましくならないように伝えるべきだから。
もし、自分がキリスト教についてきちんと理解した信者じゃなければ、教会で語ることもひとつの職業スキルに過ぎなかったでしょう。
宗教の説明においては、知識の深さも役に立ちますが、人間らしい解釈も大切だったりします。
なんかめっちゃポジティブ
聖書の中の神に選ばれた人たちでさえ疑いや沈黙を経験しているし、旧約詩篇なんて「神よ、なぜですか?」という問いかけだらけ!
カトリック作家の遠藤周作も「信仰とは1%の希望と99%の疑いである」と仰っていますから。
数千年も、これほどまでに世界に影響力を及ぼすイエスという人物が存在しなかったわけがないと思いますし、やはり、不思議な力を持っていたのはひとつの事実だったと信じます。
それに、科学的検証を行ったうえで説明のつかない事象(奇跡)も数々と起こっていて、信仰というのは本当に美しくて尊いものだと思います。
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仮に、自分の一生を通して確固たる信仰心が芽生えなかったとして、それによって私が失うものはあるんでしょうか?ー たぶん、ない。
少なくとも家族との一体感は得られているし、洗礼を受けていなければ(実際は感じなくてもいいような)疎外感に悩まされたかもしれません。
配偶者が敬虔なキリスト教徒であるがために洗礼について迷っている方、「洗礼は受けたほうがいい!」なんて言うつもりはないです。
でも、家族としての一体感を得たいとか、配偶者の国の宗教的文化を理解するために聖書を勉強してみるのもいいかな、と思えるのであれば、そんな理由で洗礼を受けるのは全然アリでしょう。
正直に言ったところで「洗礼はやめておけ」なんて言う神父さんや先生はいないでしょうし、キリスト教の家庭に生まれても教会にほとんど通っていないような信者はごまんといます。
神さまを信じられたらいいな、と、そう思うことがすでにひとつの祈りであり、信仰なのかも。
自分の性分なのか何なのか、言葉にして祈ったり、瞑想するのはすごく苦手なんですが、ウクライナやルワンダへの支援を通して、誰かのために行動することも祈りだと気付きました。
私はきっと、静かに祈るよりも、行いを通じた信仰の実践を重視するタイプなんだと思います。

