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日本もモンゴルに侵攻されました(元寇)
1274年-文永の役、1281年-弘安の役
1206年、現在のモンゴル一帯の有力家系出身チンギス・カン/ハンが周辺遊牧民や部族を統合し、モンゴル帝国を築いた。建国と同時に勢力を急速に拡大し、チンギス・カンの後継者オゴデイ・カンは西へ向かって世界征服を狙う。このヨーロッパ侵攻の最終目標はハンガリーとブルガリアを支配下に置くことであり、ポーランドはモンゴル軍・ハンガリー突入部隊の経由地に過ぎなかった。モンゴル軍は通った道や街を驚異的な攻撃力で破壊し、ポーランドをたちまち壊滅的状況に陥らせる。
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1138年の君主ボレスワフ3世の遺言により、ポーランドはいくつもの地域に分割され、それぞれを息子たちが統治することになっていた。また年長者はポーランドの最高権威者と定められ、首都クラクフがあるクラクフ大公国一帯を治めることができるという特権付きだった。これがポーランド国家の長い分裂と権力争いを生み、その真っ只中でモンゴル軍がポーランドを襲う。この絶対絶命の危機に協力し合う者もいたが、国の復興にも時間がかかりポーランドの地方分権化が進む結果となった。
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1240年12月、チンギス・カンの孫バトゥ率いるモンゴル軍がヨーロッパ侵攻開始。1月にはポーランド東部に入り着実に周辺地域を攻め落とし、3月には首都クラクフを攻撃。深刻なダメージはあったがヴァヴェル周辺は辛うじて守られる。モンゴル軍はさらに西へ向かい、ヴロツワフとその一帯を破壊してハンガリー南部へ移動した。
レグニツァ/ワールシュタットの戦い
1241年4月9日、ポーランド西部のレグニツァで起こった戦闘。相当数のポーランド軍と地方騎士団がモンゴル軍に立ち向かうが、モンゴル軍の圧勝。ポーランド軍を率いたヘンリク2世(当時のクラクフ公)は捕虜となりレグニツァ城でさらし首となった。
第1次侵攻で軍を率いたバトゥの弟ベルケが先頭に立ち、ハンガリー国王ベーラ4世とクラクフ公ボレスワフ5世に向けて攻撃開始。首都のあるマウォポルスカ地方ではモンゴル軍の動きを想定して早くから守備を固めていた。しかしモンゴル軍の戦闘力は脅威的であり、1260年2月にサンドミエシュを降伏させ、クラクフを再び破壊した。
チンギス・カンの孫ノガイ率いるモンゴル軍が再度サンドミエシュとマウォポルスカを侵略。これまでの侵攻と比べて小規模であり、レシェク2世(当時のクラクフ公)の防衛計画によって優位な立場を取った。モンゴル軍はポーランド・ハンガリー連合国軍の動きを見て早々と撤退を決め、結果的にはクラクフにてモンゴル軍の敗北で終わる。
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深刻な略奪被害と主要都市や街の破壊
ポーランド中央〜南西部の荒廃
数万人の捕虜と虐殺による人口減少
ヘンリク1世の急死でさらなる地方分権化
ポーランド国家統一の動きが後退
ポーランドと周辺国の関係の弱体化
人口減少を補うための移民計画が進む
ドイツ移民増加による西部地域のドイツ化
要塞強化・増築、戦術・戦闘力の向上
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そういえば、ポーランドでできたモンゴル人の友だちを家に招待したとき、お土産に渡されたのがチンギスハン(今はチンギスカンって習うらしい)のストラップでした。さすが、モンゴルの英雄
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