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当記事では、ピャスト王朝の最後の国王カジミエシュ3世の時代のポーランド史を説明します。
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ピャスト朝 966年〜1370年
10世紀〜992年(ミェシュコ1世)
992年〜1025年(ボレスワフ1世)
1025年〜1102年(4人の君主)
1102年〜1320年(国家分裂時代)
1320年〜1333年(ヴワディスワフ1世)
1333年〜1370年(カジミエシュ3世)
▲今ここ!
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・リトアニア共和国 1569年〜1795年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年〜1939年
ポーランド人民共和国 1947年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜
6代目国王:カジミエシュ3世大王
Kazimierz III Wieki
(1310〜1370)
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クラクフでの観光ガイドではさまざまな国王の名が出てきますが、最も頻繁に出てくるのがカジミエシュ3世。観光前に当記事を読んでおくと、一層理解が深まります (ただし、通常の観光案内では小難しい政治の話はあまり出てきません)
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▲カジミエシュ3世が1370年までに治めた領土
国土面積およそ27万km2(現在は32万km2)
Kazimierz III Wieki の治世
父ヴワディスワフ1世ウォキェテクの死後、わずか2ヶ月後に息子カジミエシュ3世が王位継承。この期に及んでまだポーランド国王を主張するチェコ国王がマウォポルスカ地方(首都クラクフ)に侵略しようとしていたため、急いで戴冠することになった。
ポーランドは14世紀初頭から不当にポモジェ地方を占領するドイツ騎士団に頭を抱えていた。前国王の晩年で一時休戦となるが、カジミエシュ3世は恒久的な平和的解決を望み、ドイツ騎士団に有利な条件を与えるかたちで和平(カリシュ条約)を結ぶ。
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ポーランドはグダニスク(最も利益のある都市)をドイツ騎士団に譲歩した。騎士団はクヤヴィとドブジンを返還し、さらに1万フローリンの補償額を支払うことで同意。しかし、補償額は一切支払われていない。この条約は1409年まで効力が保たれた。
カジミエシュ3世は国王となってすぐ、チェコとの平和的共存を目指して外交政策を開始した。チェコ国王にポーランド王位への主張を放棄するよう求めて譲歩するも、関係は悪化。シレジア地方を巡る戦争の末、カジミエシュ3世の和平交渉で終結した。
王立評議会や特別高等裁判所を設立し、農民やユダヤ人には特権を与え、刑法や民法が主となるカジミエシュ法令を制定。それまでは各地方/公国で異なる法が適用されていた。また、王国に多大な利益を与えていたヴィエリチカ岩塩坑にも改革をもたらした。
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法令では、各地方の権利、罰則、騎士・聖職者の定義と役割などを文書で明確に表した。また国家安全保障を担当する元帥、外交政策を扱う首相、財務担当の財務係、王室の地方公務員(スタロスタ)を任命。
国家の発展と安定を図るため、カジミエシュ3世は “国の秩序を管理する専門家” が必要だと考えた。1年越しにローマ教皇から大学設立の許可をもらい、法律家を育成する土台を整える。こうして設立されたヤギェウォ大学は中欧で2番目に古い大学である。
現ウクライナ西部の大部分を占めるハールィチ・ヴォルイーニ大公国の男子後継者が途絶えたため、ポーランドとリトアニアの間で分割。長い紛争の末に平和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニアに報償を与えるかたちでハールィチ公国の領土を得る。
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ポーランド王国の最高の支配者の1人である
父から継いだ領土を3倍以上も増やした
農民への関心が高く、農民の王と呼ばれた
ユダヤ人に支援と保証を与え、献身的だった
行政、経済、司法の運用と枠組みを作る
約70の都市を設立(有名なのはカジミエシュ)
70以上の町に城や防御壁(要塞)を建設
中央集権化の確立に伴って改革を実施
ポーランド初の大学、ヤギェウォ大学の設立
軍事的勝利より交渉による和平を優先
都市を発展さることで国家を内側から強化
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