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【国家再統合の14世紀】ポーランドの歴史|初のクラクフでの戴冠で再スタート

14世紀前半 ピャスト朝の最期
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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ポーランドの歴史

 当記事では、ボレスワフ3世の遺言から始まった国家分裂時代(1102年〜1320年)の終盤から1333年までのポーランド史を説明します。

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ポーランドの時代区分

ピャスト朝 966年〜1370年
 10世紀〜992年(ミェシュコ1世)
 992年〜1025年(ボレスワフ1世)
 1025年〜1102年(4人の君主)
 1102年〜1320年(国家分裂時代)
 1320年〜1333年(ヴワディスワフ1世)
 今ここ!
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・リトアニア共和国 1569年〜1795年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年〜1939年
ポーランド人民共和国 1947年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜

ポーランドの歴史
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ヴワディスワフ・ウォキェテク

5代目国王:ヴワディスワフ1世
ウォキェテク(短身王)
Władysława I Łokietek
(1260/1261〜1333)

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ヴワディスワフ・ウォキェテクの領土

▲ウォキェテクが1333年までに治めた領土
国土面積およそ10.6万km2(現在は32万km2)

Władysława I Łokietek の治世

1300年(日本 鎌倉時代)
チェコ国王がポーランドを治める

チェコ国王ヴァツワフ2世がポーランド国王として戴冠。ヴァツワフ2世とウォキェテクは激しく対立していたため、ウォキェテクは亡命を余儀なくされた。その後はハンガリーの支援を受ながらポーランド奪還の計画を進め、4年後にポーランドへ戻った。

1306年
チェコ国王の統治は6年で幕引き

帰国後の翌年にヴァツワフ2世が亡くなり、息子ヴァツワフ3世が王位を継ぐも間もなく殺害されてしまう。彼の突然の死によってチェコ王家はポーランドを去り、ウォキェテクがクラクフを治めた。国王の座を継ぐべく、市民にさまざまな特権を与える。
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ヴァツワフ3世は戴冠式のためにポーランドへ向かう道中、何者かによって殺害された。その後はヴロツワフ公ボレスワフ3世が王位を主張するも十分な支持は得られず、ウォキェテクが最有力候補となる。

1311年
市長アルバートの反乱で勝利

クラクフ市長アルバートの主導でドイツ人らによる大規模な蜂起ほうきが発生。ウォキェテクは見事に鎮圧し、市民から絶大な支持を受けた。これを機に、ウォキェテクの戴冠はより現実的となる。同時に、ドイツ市民の反乱を抑えるための要塞ようさいが建設された。

1320年
ヴァヴェル大聖堂で初の戴冠式

ウォキェテクはクラクフとヴィエルコポルスカ一帯(国内で最も重要な領土)を治めており、国家統一を推し進めた。その努力が実り、教皇の支持を受けて戴冠。200年前より大幅に縮小された領土だったが、ウォキェテクの戴冠は国家再統合のあかつきだった。

1320年〜1333年
弱者を味方につけた人道的な政治

四六時中、ポモジェ地方を不当に占領するドイツ騎士団との戦いに追われるが、ウォキェテクの治世では領土を回復することはできなかった。一方で迫害されたユダヤ人や農民への保護に力を入れており、立場の弱い者に対しては人道的に対処している。

1333年
ウォキェテクの死、息子が王位継承

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夫Piotr
200年の間で30回以上も君主が入れ替わるほど混乱していた時代。チェコの脅威にも負けず、見事に国を統一したウォキェテクは本当に偉大な国王!
あやか
仮にヴァツワフ3世が生き延びていたとしても、貴族の後援あってのポーランド王位。遅かれ早かれ市民による反乱が起きて、追い出されたと思う。
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もっと詳しく知りたい方へ

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チェコに乗っ取られる寸前だった

チェコのプラハ

 ボレスワフ3世の遺言以降、約200年の間に30回以上も君主が入れ替わったポーランド。13世紀後半、ポーランドは12人ものピャスト公爵によって治められていました。分裂により権力が分散したポーランドは他国に頼らざるを得ず、チェコがそのすきを狙おうとしたのも無理はありません。
 しかし、ポーランド国王となったヴァツワフ2世は国民の支持など得ておらず、実際の権力は貴族が握っていました。この傲慢ごうまんさがあだとなってか、チェコ・プシェミスル王朝はヴァツワフ3世の急死により断絶します。それでも敵国はしぶとく、ウォキェテクの戴冠前はチェコ王ヨハン・フォン・ルクセンブルクがポーランド王位を主張…。最後の最後までポーランドは予断を許さない状況でした。

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統一の鍵はハンガリーとの同盟

軍

 1300年にヴァツワフ2世がポーランド国王として戴冠したとき、ウォキェテクはポーランドを追われました。その亡命先がハンガリーであり、ウォキェテクの戴冠後もハンガリーはポーランドをサポートしています。そして1320年、次女エリジュビエタがハンガリー国王カーロイ1世の妃(ちなみに3番目)として迎えられました。この政略結婚はハンガリーとの同盟関係を築くだけでなく、ピャスト王朝断絶後のポーランドを支える結果となります。結局のところ、ウォキェテクの治世ではドイツ騎士団を抑えることはできなかったものの、ハンガリー援軍は最後まで力を尽くしてくれました。

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ドイツ騎士団による不当な占領

マルボルク城

 再統一を果たしたポーランド王国に欠けていた領土は、北部の大部分を占めるポモジェ地方。ポモジェ地方はドイツ騎士団によって不当に占領されており、ウォキェテクは少なくとも1307年頃からドイツ騎士団と対立しています。最初こそ会談を通して平和的解決を目指しましたが、ドイツ騎士団は契約条件を守りませんでした。さらに判決や教会の命令にも従わず、聞き分けのない厄介な敵だったのです。この頃のドイツ騎士団は莫大な利益により最盛期を迎えており、富を得たばかりに宗教騎士団としての使命を完全に見失っていました。ウォキェテクは報復を決意し、晩年まで徹底的に戦います。そして1332年、ウォキェテクの死の直前、ドイツ騎士団はポーランドに停戦を申し出ました。

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クラクフで戴冠した理由

ヴァヴェル大聖堂

 ヴァツワフ3世の急死以来、ポーランド国王の座を狙っていたのはウォキェテクとチェコ国王ヨハン・フォン・ルクセンブルク。ローマ教皇ヨハネス22世は迷った挙げ句、ポーランド司教の一押しもあってウォキェテクを選びます。一方で教皇はチェコ国王のヴィエルコポルスカ地方に対する主張も認めていたため、ウォキェテクは「ならば、ポーランドの首都クラクフで戴冠しようじゃないか」と提案しました。それまでポーランドの戴冠式はグニェズノ(ヴィエルコポルスカ地方)で行われていましたが、伝統に逆らうことにしたのです。
 意外にも強く反対する者はおらず、1320年1月20日、グニェズノ大司教によってウォキェテクは妻ヤドヴィガとともに戴冠しました。これ以降、1734年のアウグスト3世までヴァヴェル大聖堂で戴冠式を行うのがポーランドの伝統となります。戴冠式の翌日、”ポーランド人に選ばれた真の国王” は市民による自発的な忠誠の誓いを受けました。

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不名誉なニックネーム「短身王」

ウォキェテクの墓

 歴史家によって、ほぼすべてのポーランド君主にニックネームが付けられています。初代国王ボレスワフ1世は勇敢王、クラクフ司教を殺害して追放されたボレスワフ2世は冷酷王、ポーランドを分割したボレスワフ3世は曲唇公(口が曲がっていた)など。そして国家統一を図ったヴワディスワフ1世にはウォキェテク、低身長を意味するニックネームが付けられました。気になる身長は150センチ前後だったのではないか、と推測されているそう。14世紀のポーランド人男性の平均身長は160センチ強だったと考えられており、本当に150センチ前後だったなら確かに背は割と低かったと言えます…。

ピャスト王朝の終幕 カジミエシュ3世大王
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あやか
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