誕生1050周年!信仰に見るポーランド歴史物語



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去年2016年はポーランド誕生・洗礼1050周年でした。1年出遅れてしまいましたが、ポーランドの歴史を信仰という観点から振り返っていきます。

これまでも当ブログではカトリックについて多くの記事を書いてきました。しかし、このテーマとポーランドの歴史を組み合わせて書くのは初めてです。

興味深いポーランドの歴史をより深く理解するためにも当記事をぜひ読んでください(まだ前回の記事をお読みでない方は、先に下の記事をお読みください)。

歴史家が投げかけた質問には "まさか" の答えが…

2017.01.16
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このページの目次
1. ポーランドの信仰心
2. 聖アダルベルト
3. 聖スタニスワフ
4. 聖ヤドヴィガ
5. この記事のまとめ

 

ポーランドの信仰心

前回の記事で登場した、ポーランド創始者ミェシュコ1世(935〜992)と妻ドブラヴァ(935〜977)。

966年、ミェシュコの洗礼を機に新たなスタートを切ったポーランドは、この2人によって統治されます。そして、これが1370年まで続くポーランド王国ピャスト朝の始まりでした。

この2人の治世からポーランドでは、ポズナン、グニェズノ、ギエチュ、カリシュ(どれも現在のヴィエルコポルスキエ県周辺)といった町を中心に教会や修道院が次々と建設されていきます。

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ボレスワフ1世の治世

ボレスワフ1世の治世

ポメラニア、マゾヴィア、シレジア、マウォポルスキ、そして西ルーシといった数々の地域を支配し、息子ボレスワフ1世が正式な初代国王となるとさらにポーランドの勢力は拡大しました。

また、改宗とともにポーランドは宣教活動にも力を入れていきます。

確かに、カトリックであるボヘミア公国と同盟を結ぶことで圧倒的に有利となったポーランド。政治的理由で改宗したと言われてもおかしくはありません。

しかし、当時はまだ神聖ローマ帝国による直接的な脅威はなく、実際に他周辺地域はミェシュコが改宗してからも数百年の間、自然宗教を保っています

もし、本当にミェシュコ1世が政治的な理由という、形だけの改宗をしたのであれば、ブルガリアやリトアニアの初代国王のように洗礼だけ受けてカトリック信仰を捨てることもできたでしょう。

またはハンガリー王ゲーザのように、表向きにはカトリックでありながら自然宗教を信仰することもできたはずです。

しかし、ミェシュコ率いるポーランドの場合はそうではありませんでした。

洗礼を受けてからは自らポーランドに神父を招き、宣教師を送り、また他国の修道院に贈り物を授け、彼が亡くなる直前の991年頃にはローマにいる教皇に手紙を送っています。そして、その内容には「聖ペトロに私が治めた土地を贈る」といったことが書かれていました。

聖ペトロってだれ?

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聖ペトロは、イエスの直接の弟子であった12使徒の1人。

イエスから「天の国の鍵」を受け取ったため、カトリックでは初代ローマ教皇と見なしています(現在のローマ教皇フランシスコは第266代目)。

聖ペトロは鍵を持った姿、あるいはイエスから鍵を受け取ろうとしている姿で描かれていることが多いです。

さて、このような事実からも、ミェシュコが洗礼を受ける頃にはすっかり回心していたであろうことが分かります。

では、ポーランドの歴史における宗教的重要人物を3人紹介しましょう。最後の聖ヤドヴィガは、私がクラクフをご案内する時に2、3回ほど名前があがる人物です。ぜひ覚えてくださいね!(^ ^)

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2016.02.01

 

聖アダルベルト

聖アダルベルト

聖アダルベルト

日本では「プラハの聖アダルベルト」と呼ばれているようです。

アダルベルト(956〜997)はポーランド初の守護聖人。現在のチェコで生まれた人物ですが、この頃は一般的に個人が「〜人だ」と名乗ったりする習慣はなかったため、彼をチェコ人だとかポーランド人と言うことはありません。

守護聖人とは

カトリックには守護聖人という信仰概念があり、特定の職業・活動や国、地域などについて、敬われている縁の人物(聖人)あるいは天使を代祷(だいとう)者として認定しています。

アダルベルトはマクデブルク(現ドイツ)の大司教アダルベルトのもとで神学を学び、大司教が亡くなった後に名前をもらってアダルベルトと改名しました。

982年に30歳でプラハの司教となり、まだ完全にキリスト教化していないボヘミアで宣教をしていましたが、989年、司教職を辞めてローマのベネディクト派修道会で隠者となります。

ところが、その数年後には教皇の命令で再びボヘミア布教を続けることになりました。戻ったボヘミアでの布教はチェコ人との政治的な些かでうまくいかず、プラハを追い出されたアダルベルトでしたが、その後は宣教活動としてハンガリーを経て、ポーランドを旅し、最後にはプルーセンで殉教しています。

アダルベルトはポーランド初代国王のボレスワフ1世と由縁があり、遺体はグニェズノ(ポーランド)にて葬られました。ボレスワフ1世の死後まもなく、ボヘミア公はアダルベルトの聖遺物をプラハに持って来させようとしましたが、ポーランド人は「アダルベルトを追い出しておいて、返せとは何だ!」と別人の遺体を渡したと言われています。

現在のチェコ人の多くがキリスト教への信仰心を捨てているところを見ると、アダルベルトにとってもグニェズノで静かに眠るのがいいように思えますね。

聖アダルベルトはポーランドではシフィエンテ・ヴォイチェフ(Święty Wojciech)と言われています。

クラクフの中央広場にある、クラクフ最古の教会ともいわれる聖ヴォイチェフ教会は、彼に捧げられたもの。とても小さな教会なので見落としがちですが、見学可能なのでぜひ覗いてみてください。

 

聖スタニスワフ

聖スタニスワフ

聖スタニスワフ

こちらの聖スタニスワフも先ほど紹介した聖アダルベルトと同じく、ポーランドの守護聖人となっています。

スタニスワフ(1030〜1079)はクラクフの司教を務め、教皇直々の部下でもあったためポーランドの政治にも影響力を持つ人物でした。また、ローマから教皇使節を招きグニェズノ司教座の再設置に貢献、1076年には国王ボレスワフ2世の戴冠式を司ります。

しかし、土地を巡る争い(正確には不明)から国王と対立することになり、やむなくスタニスワフは国王を破門

すると「王を破門するとは何様のつもりだ!」と当然の怒りを買うことになり、スタニスワフを裁判なしで処刑するよう部下に命じました。ところが、「司教を処刑するなんて…」と恐れをなした部下は司教に触れることすらできず、王自らが死刑を執行することに…。

王はミサを挙げていたスタニスワフを捕らえて殺害、遺体をバラバラにし、教会の外の水たまりに投げ込みます。と、ここまでは王の気の済むままでしたが、周りの者が黙ってはいませんでした。

王は妻子と共にハンガリーへと亡命し、その後どうなったのかは分かっていません。このため、国王ボレスワフ2世には「冷酷王」というあだ名が付けられています。ポーランド初の硬貨鋳造を行い、有能と言われていた王だけに残念。

ヴァヴェル大聖堂には祭壇を遮るかのように置かれている立派な棺がありますが、これは聖スタニスワフの棺です。

毎年5月8日になると、この場所から聖スタニスワフが殺害された場所まで礼拝行進が行われます。聖スタニスワフが誰であるかを知らなければ、「なんでこんなところに堂々と棺を置くんだ?」と誰もが疑問に思うことでしょう。

ヴァヴェル大聖堂を実際に見学する前にこの記事を読んだ方はラッキーかも?

 

聖ヤドヴィガ

聖ヤドヴィガ(ポーランド女王)

聖ヤドヴィガ(ポーランド女王)

3人目として最後に紹介するのは、聖スタニスワフと同じくヴァヴェル大聖堂で見ることのできる聖ヤドヴィガです。

ヤドヴィガ(1373/1374〜1399)は統合ヨーロッパの守護聖人であり、正確には女王ではなく王の称号を持つ、ポーランド人の誰もが敬う人物。

25歳で生涯を閉じましたが、彼女の、権力を振りかざすことのない人間らしい行いと貧しい者をいたわる優しい心を知っていた国民達は、死後間もなく聖女として崇敬するようになりました。

彼女については、こちらの記事でも詳しく書いています。いかにスゴい人物であったかが読み取れるはず…。

ポーランドの壮絶な歴史3 アンデガヴェン家

2016.02.28
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phoro by histmag.org

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ヤドヴィガ自身はピャスト家の親戚ですが、リトアニア君主のヤギェウォと結婚してからはヤギェウォ朝最初の王として2人でポーランドを統治しました。

結婚当時、ヤドヴィガは12歳、ヤギェウォは35歳でしたが、ヤドヴィガは教養が高く複数の言語を話すこともできたため、彼女が亡くなってからのヤギェウォは少し苦労をしています。

リトアニアのキリスト教化にも力を注ぐなど敬虔なカトリックであり、王という立場からも彼女が後世のポーランドに及ぼした影響は数しれません。ヴァヴェル大聖堂にある彼女の祭壇は、聖スタニスワフの次に目を引く場所にあります。

 

この記事のまとめ

信仰ぬきにポーランドは語れない

信仰ぬきにポーランドは語れない

最後の2人の聖人は、クラクフ観光に必ず登場する人物です。こういった情報はガイドブックには載っていません。

ここまで読んだ方は、いかにポーランドのカトリック信仰が根強いものであるか理解することができたはずです。ポーランドは敬虔なカトリックの国、とはよく言いますが、歴史を知ればその本来の意味をも知ることになるでしょう。

ポーランド最初の王朝ピャスト朝が途絶えた時、リトアニアの君主を改宗させることでヤギェウォ王朝を迎えましたが、実はリトアニアは当時の欧州で唯一最後まで自然宗教を貫いていた国です。

ポーランドが改宗へと導いた地域は他にもあり、ポーランドのリトアニア改宗によって欧州のキリスト教文化が完成されたといっても過言ではありません。

他の欧州の人々が神を捨てていく現代、未だに深く受け継がれるポーランドのカトリック信仰は素晴らしい文化です。キリスト教であるかないかは個人の自由だとしても、ポーランド人皆がこの歴史に誇りを持ち続けることを願います。
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今日のポーランド語

świętyświęta

święty/święta(シフィエンテ/シフィエンタ)は「聖人」という意味です。święty は男性、święta は女性の聖人に向けて使われます。略は “św.”。

ちなみに święto はどういう意味か分かりますか?語尾が “o” だから中性向けの聖人…、ではないですよ。święto は「祝日」という意味です。例えば、国民の祝日は “święto państwowe”(〜 パニストヴォヴェ)と言います。

 

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あやか
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