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【時系列で総まとめ】イエスの母、聖母マリアの清らかな一生を徹底紹介

聖母マリア
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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この記事の内容
 キリスト教の中でもカトリックや正教会などの教派において、聖母マリアは深く敬われる存在です。聖母は神でもあり、人でもあるイエス・キリストの母。しかし、聖書をいくら読んでも人物像をよく掴むことができません。
 
 そこで聖書や外典の記述をもとに、カトリック教徒である筆者が聖母の生涯を分かりやすく、時系列で紹介します!
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天使
この記事の目次
聖母の生涯1 〜イエス誕生前〜
  現パレスチナ、ナザレで誕生
  エルサレムでの神殿奉献
  婚約までの9年間、神殿に仕える
  神殿でヨセフとマリアが婚約
  天使からイエス懐妊のお告げ
  妊娠中の叔母エリザベトを訪問
  住民登録のため、ベツヘレムへ

聖母の生涯2 〜イエス誕生後〜
  イエスの誕生/クリスマス
  羊飼いと東方三博士とうほうさんはかせの礼拝
  イエスを連れてエジプトへ避難
  産後のきよめと初子の奉献
  祭りの帰り、イエスを見失う
  カナの婚礼にイエスと参加
  十字架に架けられたイエスを見送る

その後、聖母は天に上げられた
聖母を記念する5つの記念日
バチカン公認!秋田の聖母マリア
この記事のまとめ
【信者が徹底解説】キリスト教の最大教派・カトリックってどんな教え?

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聖母の生涯1 〜イエス誕生前〜

祈る天使 以下のタイムラインに記載する年号や日付は聖書研究に基づいたものであり、さかのぼって計算した場合や史実とは異なります。

ピオトル
新約聖書に書かれている話はあくまでイエスが中心。実は、聖母については言い伝えや伝説から語れることが多いんだよ。
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紀元前22年 9月19日
現パレスチナ、ナザレで誕生
マリアは母アンナと父ヨアキムの間に生まれた待望の子どもであった。父はダビデ王の子孫であり、母は祭司レビ族の血筋。結婚から20年以上も子に恵まれず、祭司から「神に呪われている」とまで言われていた。ヨアキムはマリアが生まれた直後に他界。
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この時代、子に恵まれない夫婦は罪深き存在であると同時に神の罰とも言われた
紀元前19年頃 マリア3歳
エルサレムでの神殿奉献
すでに高齢であったヨアキムとアンナ(出産時44歳)がマリアを授かったのは、ヨアキムが天使のビジョンを見たあと、すぐの出来事であった。神の御心によって子を授かったため、両親は早くから娘を神に捧げることを決めていた(マリアの神殿奉献)。
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モーセの律法(旧約聖書)に従い、神に捧げるためにマリアは神殿へ連れられ、そこで少女時代を過ごすことになった
紀元前10年代
婚約までの9年間、神殿に仕える
神殿での厳かな生活は修道院と似たようなもであり、マリアは清い少女時代を送った。ある時、祭司が神殿のために新しいベールを織ることを決定し、ダビデ族から純潔な少女7人が選ばれた。その中にいたのがマリアであり、紫色/緋色ひいろのベールを織る。
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初期キリスト美術ではイエスやマリアの衣服に紫がよく使われており、またイエスが死の瞬間に裂かれたベールの色も紫
紀元前10年 12月下旬
神殿でヨセフとマリアが婚約
マリアが12歳の頃、天使のお告げにより、大祭司は神殿を去ることができる少女の婚約者を選ぶ。そこで妻のいない男らが神殿に集まり、各々が持ち寄った枝を祭壇の上に置くように言われた。するとイザヤ書(旧約聖書)の預言通り、ヨセフという男の枝から花が開き、マリアとの婚約が成立する。
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神殿で過ごす女性は生涯において純潔を保ち、神殿の神に仕える存在であった
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ヨセフは年老いた姿で描かれることが多いが、実際は30代だったと考えられる
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マリアは14歳で結婚するが、当時の習わしではすでに大人と見なされていた
紀元前5年 3月25日
天使からイエス懐妊のお告げ
マリアがエルサレムの神殿を離れてから4ヵ月後、マリアはヨセフとナザレに住んでいた。ある日、マリアのもとに大天使ガブリエルが現れ、処女にしてイエスを身ごもるという知らせ(受胎告知)を受ける。
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これこそ神の成せる業であり、この時代のナザレに住む処女がイエスを身ごもることは旧約聖書のイザヤ書で預言されていた
紀元前5年 受胎告知以降
妊娠中の叔母エリザベトを訪問
マリアは受胎告知と同時に、高齢で長年子を授からなかった叔母エリザベトも神の計らいで身ごもっていることを知らされる。エリザベトの懐妊を聞き、驚いたマリアは神の偉大な力に賛美し、急いでエリザベトのもとへと向かった。マリアは妊娠6ヵ月のエリザベトを労り、3ヵ月ほど滞在する。
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この時にエリザベトが身ごもった男の子は洗礼者ヨハネであり、のちにヨルダン川でイエスに洗礼を授けた人物である
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戻ってきたマリアの懐妊を知ったヨセフはマリアと離婚するつもりだったが、夢の中で天使に説得されて思いとどまった
紀元前4年頃
住民登録のため、ベツヘレムへ
当時のローマ皇帝により「人口調査のために住民登録せよ」という勅令ちょくれいが出され、ヨセフは妊娠中のマリアを連れて約150キロほど離れたベツヘレムへ向かう。宿が満室だったため、仕方なく家畜小屋に泊まった。
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二人が住んでいたのはナザレだったが、ヨセフの故郷はベツヘレムだった

 

聖母の生涯2 〜イエス誕生後〜

イエスの誕生 以下のタイムラインに記載する年号や日付は定説に基づいたものであり、さかのぼって計算した場合や史実とは異なります。

ピオトル
聖母の話は福音書によって話がちょっと違うから、深く考えずに読んでみてね。いや〜、意外と情報が少なくてビックリ。
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紀元前4-7年 12月25日 マリア15歳頃
イエスの誕生/クリスマス
住民登録の前に泊まったベツヘレムの家畜小屋にて、マリアはイエスを出産するも陣痛や苦しみはなかった。陣痛は原罪に対する罰(旧約聖書|創世記3:16)であるため、それを感じなかったのはマリアに罪がなかったからと言われる(無原罪の御宿おんやど)。
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聖書に「イエスは飼い葉桶(草や家畜飼料の入れ物)に寝かせた」という記述があるため、そのワードから推測するに “家畜小屋” で生まれたであろうと考えられている
紀元前4-7年 イエス生誕直後
羊飼いと東方三博士とうほうさんはかせの礼拝

ある羊飼いらの頭上に天使が現れ、「ベツヘレムで救世主(イエス)が誕生したので礼拝せよ」と告げられる。また、遠い東の国にいた3人の博士も西の空に見たことのない星を見て(ベツヘレムの星)ユダヤ人の王の誕生を知る。星に導かれるように旅をし、マリアに抱かれたイエスを礼拝した。
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東方三博士は占星術の学者であり、遺骨はケルン大聖堂に納められている
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ヘロデの悪意から逃れたイエス
 三博士は旅の途中で会ったヘロデ王に “ユダヤ人の王の所在” を尋ねた。ヘロデは自分に代わる王が存在することに驚き、自分もその王を拝みたいので居場所が分かれば知らせるようにと三博士に頼む。しかし、実際は殺すつもりであることを夢のお告げで知り、三博士はヘロデに居場所を知らせず東の国へ戻った。
紀元前7年頃
イエスを連れてエジプトへ避難
三博士に裏切られたヘロデは激怒し、ベツヘレムとその周辺一帯の2歳以下の男子を皆殺しにするよう命ずる(幼児虐殺)。天使はそのことをヨセフに告げ、マリアと幼子のイエスを連れてエジプトへ避難した。3人はヘロデが死ぬまでエジプトに留まった。
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なぜ天使が “エジプト” へ逃げるように告げたかは分かっておらず、そこでどのような生活を送ったのかも分かっていない
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へロデが死んだことも天使を通じてヨセフに知らされ、その後は再びイスラエルの地へ戻り、ナザレで暮らしていた
紀元前6年 2月2日
産後のきよめと初子の奉献
マリアは律法に従い、イエスをエルサレムの神殿に奉献した(イエスの神殿奉献)。「マリアのきよめの式」とも呼ばれる。そこでヨセフとマリアはシメオンとアンナという2人の老人に出会う。敬虔なシメオンはイエスを抱いて感激し、預言者であったアンナはイエスが救世主であると人々に語った。
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ユダヤ/モーセの律法では、男子を出産した母親は40日目にきよめの式を行い、その男子を神に捧げる必要があった
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神殿奉献では生贄いけにえとして雄羊1匹を捧げるか、貧しい者は家/山鳩1羽を捧げるという掟があった(マリアは鳩を捧げた)
紀元後7年頃 4月前後 マリア 28歳頃
祭りの帰り、イエスを見失う
マリアとヨセフは毎年、エルサレムで行われる過越祭すぎこしさいに参加していた。イエスが12歳だった頃、その年の過越祭すぎこしさいでヨセフとマリアはイエスを見失う。3日後、エルサレムの神殿で学者たちに話を聞いたり、質問しているイエスを見つけた。マリアはイエスを叱るが、イエスは「なぜ私を捜すのか。私が父の家にいるのは当然のことだ」と答えた。
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ルカの福音書のみに記されている、イエスの少年時代に唯一触れたエピソード
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イエスはヨセフを指して “父” と答えたわけではなく “父なる神” を指していたが、ヨセフとマリアは意味が分からなかった
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ユダヤの三大祭、過越祭
 現代のユダヤ教においても行われる伝統的な祭り。エジプトでユダヤ人の先祖が奴隷とされていた古代(紀元前15〜13世紀頃)、指導者モーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したことを記念するための祭りである。イエスが十字架に架けられたのは過越祭の頃であり、キリスト教の復活祭も同時期に行われる。
復活祭/イースターにやること徹底紹介
紀元後25年頃 マリア45歳頃
カナの婚礼にイエスと参加
ガラリヤの小さな村、カナ(ナザレから十数キロ)で結婚式があり(カナの婚礼)、マリアとイエス、イエスの弟子たちが招かれた。宴会の途中でぶどう酒が足りなくなり、マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなった」と告げる。イエスはそれに対してすぐ行動を取らなかったが、後に大量の水をぶどう酒に変えるという “最初の奇跡しるし” をみせた。
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イエスは最終的に “水をぶどう酒に変える” という奇跡しるしをみせたので「イエスはマリアの願いを聞き入れる」とも解釈できる
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現在もカナはぶどうの産地であり、ぶどう酒(ワイン)で有名である
紀元後29年頃 マリア49歳頃
十字架に架けられたイエスを見送る
弟子の裏切りによってイエスが捕らえられ、裁判の結果、十字架に架けられることになった(キリストの磔刑たっけい)。イエスは弟子の一人に愛する母を託し、マリアは悲しみに暮れながらイエスの最期を見届けた。
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この時にマリアが流した涙が落ちたところから咲いた花がカーネーションといわれ、母の日に贈る花とされている

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その後、聖母は天に上げられた

聖母の被昇天 こうしてまとめると聖母マリアについて多く触れているようですが数十年の空白もあり、聖書には細かい記録がありません。

“聖母の生涯1〜イエス誕生前〜” の項目に記した内容の大半が外典から来るものですが、イエス死後のマリアについても外典や黄金伝説という書物で確かめることができます。

イエス死後のマリアのようすについて、聖書で触れている箇所は下記のみです。

使徒言行録1-12〜14
 
(イエスの昇天後)使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。(略)彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

.オリーブ山

一般的に伝えられるマリアの晩年は、エフェソス(現トルコ)で聖ヨハネ(イエスの弟子)と数年間を過ごし、その後エルサレムに移って紀元後40年代に逝去したという説。

あるいはエフェソスで最期を迎えたとか、エルサレム郊外の家でひっそりと暮らしたとか、いずれにしても正確には分かりません

伝承によれば、マリアは逝去の3日前に天使から死を告げられ、一度は棺に納められますが、のちに大天使ミカエルによって肉体ごと天に上げられました(聖母の被昇天)。
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8月15日は聖母の被昇天の日
 聖母マリアの霊魂は肉体とともに天使によって天国に運ばれ、イエス・キリストの栄光にあずかったことを記念する日。5世紀頃に「神の母マリアの祝日」として祝われていたが、6世紀以降、聖母が天に上げられたことを記念する日となった。1950年、教皇ピオ12世は教会の教義であると公布する。

 

聖母を記念する5つの記念日

聖母マリア

ピオトル
最初に紹介した「聖母マリアの生涯1・2」の復習がてら、聖母にまつわる5つの記念日をチェックしてみましょう。
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12月8日1。無原罪の御宿おんやど
9月8日。11マリアの誕生日
11月21日マリアの神殿奉献
3月25日1。受胎告知
8月15日1。聖母の被昇天

この中でも、前項で紹介した「聖母の被昇天の日」はカトリック教徒が大半を占めるポーランドはもちろん、フランスやイタリア、中南米でも祝日として定められています。

神の母” と言えども信仰対象はイエス・キリストであり、聖母にまつわる祝日ごとに大々的にお祝いをするわけではありません
ポーランドの祝日
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バチカン公認!秋田の聖母マリア

聖体奉仕会 多くの人にとってにわかには信じ難いでしょうが、聖母マリアがご自身の姿を表したり声を掛けてくださるという事象があります。

これを聖母の出現といい、お告げを受けたり姿を見る人々は信者に限りません。
バチカンも科学的調査を行ったうえで奇跡と認めるため、誰かのいい加減な発言や人々の計画によるものではないというのは確かです。

そして実は、秋田市添川湯沢台にある聖体奉仕会(カトリック修道院)に「101回の涙を流した聖母マリア像」という、バチカンも認めた “奇跡のマリア像” があるんです!

聖体奉仕会 2016年の一時帰国の際、夫ともに秋田の聖母像を拝みにいきました(聖母像は撮影できないので写真はありません)。

当時の私は洗礼を受けてまだ1年でしたが、優しい笑顔のシスターともお話し、どこか和の趣を感じる聖母像には心が癒されました。

社寺しゃじ建築を取り入れた美しい聖堂や、手入れされたマリア庭園も一見の価値あり。

今度は敬虔なカトリック教徒であるポーランドの義両親も連れて、もう一度、この秋田の聖体奉仕会修道院を訪れたいと思います。

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この記事のまとめ
アイコン 聖母マリアの生涯をイエス生誕前後に分けて紹介しました。特にイエス生誕前のマリアについてはカトリック教徒の間でも意外と知られておらず、当時の掟など含め、信者問わず興味深い内容だったのではと思います。たとえ伝承によるものだったとしても、聖母の生涯を知ることで広く崇められているマリアも一人の人間であったことを実感できるのではないでしょうか。

 私はクラクフ公認ガイドとして何十もの教会や礼拝堂をガイドしていますが、キリスト教を知らずしてポーランドの真の歴史は語れません。マリア崇敬なしに今のポーランドが存在しなかったのは紛れもない事実なのです。そして聖母を「国家の女王」として見なすのは、ポーランドだけ。信仰に関係なく、観光目的でポーランドへ訪れるすべての人たちに聖母を知ってほしいという思いで当記事を書きました。

最大教派カトリックについて徹底解説

 

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あやか
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