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ポーランドという国の歴史を語るうえで避けては通れない、ポーランド分割の悲劇。
18世紀末、三度にわたって祖国が消されていくのを目の当たりにしたポーランド・リトアニア共和国の人々は一体どれほど絶望したでしょうか。
しかし、黙って消されたわけではありません。
三度目の分割までの間、そして消されてから独立するまでの間にも壮大なドラマがあります。
ポーランド・リトアニア共和国の成り立ちとポーランドが分割された原因について、まだ読んでいない方は先にこちらの記事をお読みください。
このページの目次
1. 1772年 第一次ポーランド分割
。仕組まれていた国王選挙
。領土拡大というロシアの野心
。残された希望は国政改革
。ヨーロッパ初の憲法が誕生
2. 1793年 第二次ポーランド分割
。憲法が一年あまりで廃止となる
。ポーランド・ロシア戦争の勃発
。共和国最後の議会が開かれる
3.1795年 第三次ポーランド分割
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※当記事では「ポーランド・リトアニア共和国(略して共和国)」と「ポーランド」が同意義で使われます。
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1772年
〜第一次ポーランド分割〜
上の地図は第一次分割後のものとなり、黄色の部分がポーランド・リトアニア共和国、東側やや中央の深緑がロシア、西側の紺色がプロイセン、南側の深緑がオーストリアの領土となります。
1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアによって行われた秘密の合意の結果、これらの国はポーランド・リトアニア共和国の約30%もの領土を占領し、三つに分割しました。
その中でも最大の領土を得たのがロシア、次いでオーストリア、最後にプロイセンの順。
ただ、この三国で最も経済的価値のある部分を占領したのがプロイセンだったのです。
バルト海に面する部分を得たことでポーランドに高い関税をかけ、さらに弱体化させました。
分割前のポーランドは73万3000 km2の領土と1400万人の人口を有していたが、第一次分割後は21万1000 km2(もとの約30%)と400万人〜500万人(もとの約35%)を失った
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仕組まれていた国王選挙
ポーランド・リトアニア共和国最後の国王はスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ。
若くして国会議員となった優秀なスタニスワフを支えたのは、「ファミリア」という政治党派の指導者でもあり、また自らの家系から王を出そうともした大貴族チャルトリスキ家です。
チャルトリスキ家とポニャトフスキ家は近い親戚関係にあり、どちらもすっかり弱り切ってしまったポーランドの改革をともに目指していました。
そんなチャルトリスキ家の推しもあって国王となったスタニスワフですが、後のロシア皇帝エカチェリーナ2世とプロイセン王フリードリヒ2世もそれに同意し、彼を支援していました。
このエカチェリーナとフリードリヒは最初からポーランドの崩壊を望んでおり、ポーランドの政治を保証するという約束をしてまでスタニスワフを国王という優位な立場に立たせました。
実はエカチェリーナはスタニスワフの元愛人であり、国王となった彼を利用してポーランドを操ることは容易であると考えたのです。
またエカチェリーナは生粋のドイツ人であり、フリードリヒとはさぞ話が進んだことでしょう。
チャルトリスキ家は強いポーランドとなることを望み、一時は親ロシア派でもありました。
そのロシアが弱いポーランドどころか、国家の崩壊を望んでいたことに早く気付いていれば、また違った明るい未来があったのかもしれません。
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領土拡大というロシアの野心
18世紀後半にロシアとオスマンの間で繰り広げられた露土戦争の結果、ロシアは反ポーランド的な立場を取るようになってきました。
オスマンに勝利したロシアは領土拡大を目指すようになり、それが実現すると近隣諸国への影響はもちろん、ハプスブルク帝国(オーストリア)も危うい状況に立たされてしまいます。
当時財政困難であったプロイセン側としても、万が一ロシアとハプスブルク帝国が戦争でもすれば、ロシアと同盟を組んでいるためにまた戦争に巻き込まれてしまう恐れがあり、それだけは避けたいといった意向がありました。
ロシア、プロイセン、オーストリアの間でポーランド分割が行われたのは、この三国にとっての最良の平和的解決策だったのかもしれません。
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プロイセンに誘われ、結果的にポーランド領土の一部を奪ったとはいえ、この三国のうちポーランドに対して最も寛容的だったのはオーストリアです。
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残された希望は国政改革
第一次ポーランド分割を受けて、国王スタニスワフはポーランドの強化を図ります。
国家の存続には政治の仕組みそのものを変えてしまうような根底からの改革が必要不可欠であり、残された領土を守るのが彼の使命となりました。
そこで国王は、改革に携わるのに相応しい人物としてスタニスワフ・マワチョフスキ、フーゴ・コウォンタイ、スタニスワフ・コナルスキ、イグナツィ・ポトツキら他有力者を採用し、ロシア政府の監視下に置かれた常任理事会の中でポーランド復興計画を着実に進めていきます。
彼らは非常によく啓発された貴族であり、信頼できる教育者やカトリックの司祭が含まれました。
政治的な面では4年にわたって議会の延長が繰り返され(四年議会)、国のあり方を根本的に見直すためにありとあらゆる方面(議会、財政、軍事、王領都市、土地の権利、相互保障に関してなど)での法律の制定や改正が行われました。
また教育改革として、例えば、ポーランド最古の大学であるヤギェウォ大学ではフーゴ・コウォンタイによって改革が実施されています。
この改革では中世からの無意味な厳しい規則を大学から排除し、平凡な学科を医学部や神学部と同レベルにまでランクアップさせたり、教授の給料も年功序列から成果主義に変えていきました。
これらの思いきった国政改革には国民どころか議員ですら戸惑うほどでしたが、この時のポーランドはむしろまだ輝いていたのかもしれません。
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ヨーロッパ初の憲法が誕生
幼少期をイギリスとフランスで過ごした国王は啓蒙思想に影響を受けており、特にイギリスのような立憲君主制に大きく感化されていました。
そして君主が主権を持ちつつその権限を制限するための法規、つまり憲法の策定こそ我が国を救うであろうことに気が付いたのです。
この憲法を定めるにおいて、前項で触れた国政改革に携わった貴族たちは大いに活躍しました。
憲法は国王には立法権がないことを明示し、三権分立のもと民主的な内容となっています。
例えば、国家の衰退を招いた一つと言われる、議会での自由拒否権(リベルム・ヴェト)を完全廃止し、多数決制を取るようにしました。
自由拒否権を行使した場合、国会議員の一人でも反対の意を示すと議論が中止となってしまい、また可決途中の案でも無効化されてしまいます。
ほか国民の支配的宗教をカトリックと定めながらも信仰の自由を保障し、農民は法律のもとに保護を受けられること、市民と(大)貴族は政治的に平等とし、(自由拒否権や国外の者が国家の政治に干渉する隙を与えるような)議会の諸制度のうち弊害があったものは見直されました。
このヨーロッパ初の憲法は米国に次ぐものとして1791年5月3日に採択されており、現在も5月3日は憲法記念日として祝日になっています。
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1793年
〜第二次ポーランド分割〜
上の地図は第二次分割後のものとなり、黄色の部分が共和国、東側やや中央の深緑がロシア、西側中央の紺色がプロイセンの領土となります。
1772年に起こったロシア・ポーランド戦争での敗北の結果、1793年、ポーランドは国王自らの妥協と降伏によって現在のイタリアまるごとに匹敵する領土を失うことになりました。
ロシアは、リトアニアとウクライナ(東ガリツィアを除く)の大部分とベラルーシ西部の領土を占領し、やはり第一次分割同様、プロイセンより圧倒的に多くの領土を得ることになります。
プロイセンは第一次分割で奪えなかったバルト海に面する都市グダニスクやトルンを占領し、現在のヴィエルコポルスカ県に併合しました。
オーストリアはフランス革命中の混乱もあって介入できず、第二次分割には参加していません。
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憲法が一年あまりで廃止となる
ポーランドの憲法策定という画期的な改革は、ロシアとプロイセンを非常に驚かせました。
せっかく無政府状態だったポーランドから強力な政府が再生するのは避けたい、下手をすれば第一次ポーランド分割で得た領土を失ってしまうのでは、いや、それどころか我々の貴族も同じような真似をするのでは……それだけは避けねば。
憲法の公布は危険思想だのフランス革命の伝染病だのと非難され、結論から言うと、この改革がポーランド消滅の直接的な原因となります。
もともとポーランド分割という悪行をよく思っていなかったオーストリア大公マリア・テレジアの息子、ローマ皇帝レオポルト2世はポーランドの改革を支持していましたが、1792年に亡くなり、もはやわずかな望みもありません。
この「5月3日憲法」は公布からたったの一年あまりで廃止されてしまい、のちに「亡くなった祖国の最後の遺言」と言われるようになりました。
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ポーランド・ロシア戦争の勃発
1792年、ロシアは再びトルコとの戦争に勝利し、西欧諸国がフランス革命で忙殺されている間にポーランドのさらなる支配に集中しました。
憲法策定によってエカチェリーナのポーランド支配意識に拍車がかかり、いよいよタルゴヴィツァ(タルゴヴィツァは現在ウクライナ西部にある町の名前)で連盟の声明が出されます。
連盟のメンバーは、ロシアの支援を受けた5月3日憲法に反対するポーランドの大貴族。
彼らは決してポーランドの消滅など望んでおらず、むしろロシア側に付くことでロシアがポーランドを復活させてくれると信じていました。
ただ動機はどうであれ、祖国の破滅を導いた者として今日では愚かな売国者と呼ばれています。
改革を支持するポーランド・リトアニア共和国軍とロシア軍・タルゴヴィツァ連盟軍との戦いは1792年5月18日に始まり、同年7月27日にポーランドの敗北で終止符を打ちました。
しかしこれまで幾度となく大国との戦いに勝ってきたポーランド、戦闘人数はロシアが上でも打ち負かされてばかりではありませんでした。
もう少し踏ん張れば勝算の見込みもあったと言われますが、そのような余裕もなかった国王スタニスワフ自ら降伏し、ついには国王自身が連盟に加わるという結果に終わってしまったのです。
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共和国最後の議会が開かれる
1793年1月、ロシアとプロイセンの間でポーランド分割協定が調印され、同年6月から11月にかけて共和国最後の議会(グロドノ・セイム)がフロドナ(当時はポーランド領でグロドノといい、現在は西ベラルーシ)で開かれました。
この議会でロシアとプロイセンによって招集された共和国議員らは、ついに第二次ポーランド分割の承認を迫られることになります。
まったくと言っていいほど力のなかった共和国側は何も発言できず、ただ沈黙を貫きました。
多くの議員が発言を許されず、承認を拒否すれば逮捕され、外はロシア軍と大砲で囲まれる中、誰が異を唱えることができるでしょうか。
この議会は審議の場として設けられたのではなく、ノーと言えない議員を議会に参加させ、分割を正当化させるために開かれたものでした。
そして沈黙は真夜中まで続き、ついに議長が「沈黙は合意と見なす」と発言したことで第二次ポーランド分割が現実となってしまったのです。
またポーランド軍は解散となり、ロシアとプロイセンの軍隊に徴用されることになりました。
もちろん多くのポーランド兵がこの命令に従うことを拒否しましたが、そういった人々がどのような目に遭ったのかは言うまでもありません。
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1795年
〜第三次ポーランド分割〜
上の地図は第一次から第三次分割で占領された領土を示したもので、深緑〜黄緑がロシア、青〜水色がプロイセン、黄色とオレンジがオーストリアとなります(最初に得た領土は濃い色)。
第二次ポーランド分割で国家の滅亡が目の前に迫り、それを阻止すべく、農民から貴族まで多くのポーランド人がロシアに立ち向かいました。
ポーランド軍は最後の議会で解散させられましたが、フランス軍の元でポーランド軍団が設立され、19世紀前半まで活躍します。
一部のポーランド人はフランスへ亡命し、ロシア、プロイセン、オーストリアの敵となるフランス革命軍に最後の望みを懸けていたのです。
中でも英雄タデウシュ・コシチューシュコによる武装蜂起がよく知られており、「ラツワヴィツカの戦い」でロシアに勝利したことは有名です。
しかしこの蜂起はポーランドの敗北に終わり、ロシアはポーランド人の反乱を鎮圧するために3度目のポーランド分割を提案。
その結果、第二次分割からわずか2年後の1795年10月、ついにポーランドは1918年11月までヨーロッパの地図から抹消されました。
第三次ポーランド分割が行われた結果、ロシアは旧リトアニアのヴィリニュス含む残部を得ることでヨーロッパの確固たる地位を獲得し、プロイセンは旧ポーランド西部の豊かな農地を得ることでドイツ最強の国家へと成り上がりました。
オーストリアは1772年の第一次分割で得た領土をガリツィア・ロドメリア王国としてハプスブルク帝国支配下に置いており、第三次分割では古都クラクフを占領しています。
この王国の東には、クラクフ同様に歴史的な街として知られるリヴィヴ(現ウクライナ領、ポーランド語ではルヴフと呼ばれる)がありました。
こうしてポーランド消滅後、存在意義のない国王スタニスワフは退位させられます。
退位後はロシアから多額の年金を受給し、サンクトペテルブルクで3年の余生を過ごしました。
ポーランド分割、その後…
しばらくして1807年、ナポレオン戦争でフランスの傀儡国家ワルシャワ公国が誕生。
ポーランド人はワルシャワ公国がやがて王国となることに望みをかけ、ナポレオンを絶大に支持しました。ナポレオン軍の多くはポーランド人で構成されており、彼らはロシア軍と戦います。
しかし敗北という結果に終わり、1815年にはナポレオンの失脚。
ナポレオンはポーランド人の士気を高めるために多くの約束をしましたが、結局それらは果たされていません。そのためナポレオンは軍結成の口実にポーランド人 を利用しただけではないのか、とポーランドでは裏切り者扱いです。
確かに、ナポレオンはポーランド人を使うだけ使い、本意かはさておきその見返りを与えることはありませんでした。
解体されたワルシャワ公国はロシアが征服するポーランド立憲王国となり、状況が悪化したのは言うまでもありません。
1830年、1863年にロシア帝国からの独立を目指し、ポーランド人はまたもや大規模な蜂起を起こします。それらが鎮圧された結果、数百人もの貴族が絞首刑となり、蜂起参加者の十数万人がシベリアに流刑となりました。
1871年、ビスマルクによるポーランド人抑圧政策が始まり、ポーランド文化は掻き消されることになります。
それでもこれらの苦難の時代はポーランド人の連帯意識を強め、カトリック信仰もより堅固なものにしました。
この時代の著名人といえば、音楽家フレデリック・ショパン、国民的詩人アダム・ミツキェヴィッチ、国民的画家ヤン・マテイコらですが、彼らは皆ポーランドへの愛国心が強く、ポーランド人としての民度や意識、亡き祖国が築き上げてきた歴史を守ろうとした者達です。
ようやく独立が実現したのは、国家が消滅してから123年後のことでした。
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Rozbiory Polski
Rozbiory Polski(ロズビオレ ポルスキ)は「ポーランド分割」という意味です。
Rozbioryの “roz-” は「広がる/散る/離れる」というイメージの接頭辞で、”rozgadać się(ロズガダチ シェン/雑談する)” や “rozebrać się(ロゼブラチ シェン/脱ぐ)” など多くの動詞に見られます。
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綾香様
お久しぶりです。大変勉強になりました。また、楽しく読ませて頂きました。ありがとうございます。
お久しぶりです!
当記事を読んでいただきありがとうございます。
久しぶりに歴史テーマをがっつり書き、複雑な当時の背景を分かりやすくまとめました。
ポーランドを知るにはポーランドのことだけ知っていればいい、という話ではなく、改めてヨーロッパの近代政治にのめり込んでしまいました。