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当記事では、建国初期の10世紀末〜1025年のポーランド王国成立までの歴史を説明します。
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ピャスト朝 966年〜1370年
10世紀〜992年(ミェシュコ1世)
992年〜1025年(ボレスワフ1世)
▲今ここ!
1025年〜1102年(4人の君主)
1102年〜1320年(国家分裂時代)
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・リトアニア共和国 1569年〜1795年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年〜1939年
ポーランド人民共和国 1947年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜
ポーランド王:ボレスワフ1世 勇敢王
Bolesław I Chrobry
(966/967〜1025)
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▲ボレスワフ1世が1025年までに治めた領土
Bolesław I Chrobry の治世
992年に父ミェシュコ1世が亡くなると、息子のボレスワフ1世が公位を継いだ。義母オダ(実母とは死別)と兄弟を国外へ追放し、父の権力と政策を引き継ぐとともにポーランド公国の領土を画定。ローマ皇帝オットー3世と同盟を結び、関係を強化する。
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義母は親ドイツのノルトマルクから嫁いでおり、彼女は自身の息子に公位を継がせたいと思っていた。危機を感じたボレスワフ1世は父の死後、彼らを国外へ追放する。
ローマ皇帝オットー3世が親交のあった宣教師(異教徒に殺害され殉教した聖ヴォイチェフ/聖アダルベルト)の墓参りのためにポーランドの首都グニェズノを訪問。皇帝とボレスワフ1世は友好的な関係となり、ポーランドのために最善を尽くすと約束した。
ローマ教皇庁の許しとグニェズノ会議を機に、国内に独立した教会組織を設立できるようになった。これにより968年から存在するポズナン司教座に加えてコウォブジェグ、ヴロツワフ、クラクフの3都市に司教座、グニェズノに大司教座が設置される。
ポーランドに非常に協力的だったオットー3世が21歳で死去。ボレスワフ1世と次皇帝ハインリヒ2世とは激しく対立し、ポーランドとドイツは15年以上に及ぶ戦闘状態となった(3回戦争、2回休戦)。1018年に和平が成立し、ボレスワフ1世の勝利。
皇帝ハインリヒ2世と教皇ベネディクトゥス没後、次期教皇ヨハネス19世の同意によりボレスワフ1世は国王として戴冠した。ポーランドは公国から王国に昇格。しかし当時のボレスワフ1世は衰弱しており、戴冠式のほぼちょうど2ヶ月後に亡くなる。
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オットー3世と友好的だった理由
.教会の独立ってどういうこと?
カトリック教会は地域ごとに教区(教会が定める地区)で分けられており、教区は司教によって包括されています。そして、さらにそれら司教をまとめるのが大司教。通常、司教を設置するには上司にあたる大司教の認可が必要となりますが、言い換えると、大司教の意にそぐわない場合は司教座を設置することができません。ポーランドの場合、教会の独立(=ローマ教皇庁の直属)が認められるまではドイツのマグデブルク大司教の管轄下にあったという説があります。ローマ教皇から許可云々の前にどこかの大司教の指示を仰がなければならない、という状況より、ローマ教皇庁に直接申し出できるほうがいいのは言うまでもありません。
ハインリヒ2世との激しい対立
ハインリヒ2世とオットー3世は政治的にライバル関係でした。生前のオットー3世はボレスワフ1世にポーランド国内および周辺の異教の地における教会支配権を与えたり(本来は皇帝の権利)、ボレスワフ1世によって征服された土地を(将来も)侵略しないと約束したり、『聖モーリスの槍』や『カール大帝の玉座』などドイツの至宝までも与えていたことはハインリヒ2世にとって非常に不愉快だったのです。オットー3世は1002年に21歳の若さで亡くなりましたが、実際には暗殺されたという説も…。また、ボレスワフ1世も同年に暗殺未遂に遭って命拾いをしています。暗殺の首謀者はハインリヒ2世とも言われていますが、証拠はありません。
なぜそんなに戴冠が遅れた?
ポーランドに好意的であった皇帝オットー3世とローマ教皇シルウェステル2世ですが、皇帝は1002年、教皇は1003年に亡くなりました。次期皇帝ハインリヒ2世は反ポーランドであり、次期ローマ教皇にはポーランドにとって不利な噂を流していたのでしょう。グニェズノ会議以降にオットー3世の計らいによって準備されていたヴロツワフ2世の王冠は反ポーランド派によって阻止され、ハンガリーのイシュトヴァーン1世に渡りました。それに加え、オットー3世の死後はハインリヒ2世との長い戦闘状態に突入。しばらく戴冠どころではなくなります。そして1024年、同じ年にハインリヒ2世と教皇ベネディクトゥスが崩御。ボレスワフ1世は後継者が決定するまでの不安定な状況を利用し、ようやく王冠を手にしました。そして、もう心残りはないと言わんばかりに間もなく息を引き取ったのです。
後に勇敢王と名付けられた理由
ボレスワフ1世は近代の歴史家によって “勇敢王” と名付けられましたが、それは文字通り、武勇に優れていたから。父ミェシュコ1世は為政者として大成を収めました。しかし、父が晩年を迎える頃には異教徒の反乱や他部族との戦が相次ぎます。ミェシュコ1世は自然宗教の偶像を捨て、教会を次々と建てたのでキリスト教への改宗による反発は非常に激しいものでした。そのような情勢でも国をうまく治め、皇帝ハインリヒ2世との長い戦いの末に勝利し、ルーシを攻めて現在のウクライナ西部を征服し、さらに領土を広げて国王の称号まで勝ち取ったボレスワフ1世。勇敢以外の何者でもありません。
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