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ヤン3世ソビエスキは、オスマン帝国との戦いで勝利を収めることによってヨーロッパを救ったポーランドの英雄。
ポーランド・リトアニア共和国(以下、共和国)国王としても活躍しました。
彼がいなかったらポーランドはもちろん、西欧の歴史は大きく変わっていたかもしれません。超重要人物です!
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このページの目次
1. ヤン3世ソビエスキとは
。青年時代は見聞を広める旅へ
。欧州最大の敵 オスマン帝国へ
。ポーランド軍司令官になる
。ポーランド国王に選出
2. ウィーンでの戦いで英雄に
。3万の軍 vs15万の大軍
。その後の報われない共和国
。ヤン3世を讃えた星座
ヤン3世ソビエスキとは
1629年8月12日、ヤン3世ソビエスキはオレスコという町(現ウクライナ領)にあった名家に生まれました。
父はとても名高い政治家のヤクブ・ソビエスキ。ルーシ県知事、クラクフの城代でもありました。母のゾフィアも名高い軍人を祖父に持つ大貴族の出身。
そんな両親を持つヤン3世は若い頃からフランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語を話すほどに教養があり、やがては世界に名を馳せる英雄となります。
ちなみに当時のポーランドは、ポーランドとリトアニアが併合されたポーランド・リトアニア共和国という国家でした。
ソビエスキがまだ幼かった1637年には国家史上最大の領土(約99万㎢)を得ました。
赤点線の国境は現在の国境ですが、現在のウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストアニア、一部ロシアまでをも領土とし、その巨大さは一目瞭然です。
青年時代は見聞を広める旅へ
クラクフのヤギェウォ大学で哲学を修了した17歳の少年ヤン3世は、兄マレクと西欧へ向けて旅に出ました。
この旅は2年以上も続く長い旅で、ライプツィヒ(ドイツ)、アントワープ、パリ、ロンドン、ライデン(オランダ)…と様々な西欧の主要地に訪れます。
また、それぞれの国では王侯、貴族らと盛んに交流していたようす。
ポーランドに帰国した後は、フメリニツキーの乱という東欧史上最大の軍事衝突とも言われるコサックの武装蜂起に対し、共和国軍として参加しました。
しかしズボリフの戦いの後、兄弟は離ればなれに。また、兄はクリミア・タタール人の捕虜となり死亡します。
兄を亡くした彼は間もなく、これまでの小連隊長の実績もあって大連隊長に昇進。将来有望な青年将校として、共和国の国王ヤン2世カジミェシュによってオスマン帝国に派遣されました。
欧州最大の敵 オスマン帝国へ
オスマン帝国(オスマントルコ)は1299年に建国され1922年に滅亡した、割と最近まで存在した国家です。
彼らは15世紀に東ローマ帝国を滅ぼすために西へ向かって征服を開始。
やがてコンスタンティノポリス(現在のトルコ、イスタンブール)を支配し、そこを彼らの首都としました。
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トルコ、イスタンブールの観光地といえば6世紀(ポーランド王国の建国よりずっと前!)に建設されたアヤソフィアというモスク。モスクとはイスラム教徒が集う礼拝堂のことでキリスト教でいう教会のような場所です。
ところでアヤソフィアはかつて、教会でした。今でも見学していると、イエスを抱いた聖母マリアや十字架を名残として見ることが出来ます。オスマン帝国に支配されてからはモスクとなっていますが、ここからもトルコにはかつて大勢のキリスト教徒が暮らしていたことが分かりますね。
写真は、そのアヤソフィアで撮影したもの。聖母マリアとイエスが中央にいます。私はトルコに3回訪れたので、3回もアヤソフィアに行きましたが本当にいつ見ても素晴らしい!
さらに勢力を強めていったオスマン帝国は東ヨーロッパキリスト教諸国、西アジア・北アフリカのイスラム教諸国をも征服し、15〜16世紀にはついに西欧キリスト諸国を攻めはじめます。
そこで「やられるのも時間の問題」と恐れをなしていた国王によって、まだ若きヤン3世はオスマン帝国に送り込まれることになりました。
彼はその地でタタール語を学び、トルコ人の軍事的習慣や戦術を習得します。
ポーランド軍司令官になる
オスマン帝国から帰国した後の1656年、これまでの功績もありポーランド軍司令官に任命されたヤン3世。
この頃、共和国はイスラム教徒のタタール人らを味方につけており、ヤン3世は2千人のリプカ・タタール人騎兵を率いて目覚ましい戦功をあげました。
当時のポーランドはウクライナ・コサックの反乱やスウェーデン、オスマン帝国との戦争によって国土は荒廃していましたが、軍事能力に優れた彼が登場しポーランドに大きな光が差し込みます。
また1659、1662、1664〜1665年には国会議員となり、さらなる昇進と注目を浴びることに…。
そして1665年、フランス貴族の娘マリア・カジミエラと結婚(彼女は前夫と死別していたため再婚)。
彼らの恋仲は有名で夫婦となってからも多くの恋文を交わしていたそう。夫は戦に出ては長く帰らず、妻も貴族としての任務で里帰りをしたり、離れている時の方が多かったんでしょうね。
ちなみにマリアは前夫とは政略結婚でしたが、ヤン3世とは宮廷で出会ったときから惹かれあっていたようです。
それでも不倫をするほど互いに暇ではなく(しかもマリアは当時17歳)、夫が亡くなったと思えばもうその年に彼と結婚してしまったという訳。
話が逸れたので戻しましょう。
ヤン3世はコサックとクリミア・タタールの同盟軍に対しての戦いで勝利を収め、これがきっかけとなって共和国最高司令官にまで上りつめました。
その後も次々と勝利を勝ち取り、ついにオスマン帝国の要塞ホチンを占領。
この大きな戦いでオスマン帝国に打ち勝ったヤン3世は、これを機にして国民からの支持を得るようになります。
ポーランド国王に選出
1674年の自由選挙、妻の熱心な支援と大多数の議員からの賛成もあり、ヤン3世は共和国の国王となりました。
しかし彼が王位についた頃、共和国はヨーロッパ最大の領土を持つ国だけあって常に戦いが絶えない状態でした。
同時に政治も除々に腐敗しきっており、国に力を貸すべき大貴族(マグナート)達も財政援助を見放す始末。
そこでヤン3世はこれ以上国内の経済が悪化しないようにと、当時最大の敵であるオスマン帝国との戦争を講和に持ち込み、経済的負担の主要因となっている戦争の連鎖を断ち切ろうとします。
また、かつてはポーランドに従属していたプロイセンが勢力を持ち始めたため再び支配下に置こうと試んだり、フランスの財政援助を受けてスウェーデンの征服を計画しますが、こちらの方はオスマン帝国との戦争に忙殺されていたこともあって失敗に終わりました。
ただオスマン帝国との講和条約を締結することには成功し、共和国にも一時は平和な時代が訪れます。その間も彼は休むことなく、軍のあり方について様々な意見を出しては軍事改革を押し進め、戦術はますます発展しました。
と、ここまでの皆さんのヤン3世ソビエスキの印象は、軍を率いては勝利をあげ続ける、どちらかといえば攻撃的な姿勢の人物に見えるかもしれません。
しかし彼もできれば戦いなどはしたくなかったようで、積極的に敵対関係にある近隣諸国と講和条約や同盟を組んだり平和的な統治をしています。
ウィーンでの戦いで英雄に
補足説明も読んでくださった方、お疲れさまです。でもここからが本題。
ヤン3世ががなぜ英雄と言われるようになったかというと、それは彼がウィーンにてオスマン帝国に勝利し、ムスリムの支配から救ったことにあります。
3万の軍 vs15万の大軍
1683年5月、オスマン帝国の15万以上にも及ぶ大軍がハプスブルク家の都ウィーンを包囲しました。
オスマン帝国による(最後の)大規模なヨーロッパ進撃作戦です。
オスマン帝国に領土を奪われ支配を受けるともなればキリスト教諸国にとっては最悪のシナリオ。まさにヨーロッパがムスリム国家となる手前でした。
事態を重く見た神聖ローマ帝国のレオポルト1世は、これまで偉大な活躍を遂げてきたヤン3世に「ウィーンを守ってほしい」と要請。しかしこの頃には、ウィーンは完全に包囲されていたので神頼みの状態だったにちがいありません。
8月15日、ヤン3世はクラクフを発ちます。その途中でカトリックの巡礼地であるチェンストホヴァに立ち寄り、聖母マリアに祈りを捧げたそう。
8月も終わりに近づくと、オスマン帝国はウィーンに対して降伏を要求。9月にはウィーンの城壁は持ちこたえが厳しくなり、また食も底をつき始めます。
9月4日、ついにオスマン・トルコ軍は城壁を火薬で爆破。
9月12日、ヤン3世は必死に寄せ集めた約3万のポーランド・ドイツ候軍を率いてウィーンに到着します。現状を把握した彼は総攻撃の前、指揮官達とともにチェンストホヴァの聖母マリアに祈りを捧げ、ミサにあずかりました。
そして夕方となり、オスマン・トルコ軍の士気が下がっているところを直ちに攻撃開始。実は他にも7万人のキリスト教軍が戦っていたのですが、主力であるヤン3世率いる騎兵部隊が中央突破に成功したことで、オスマン・トルコ軍が混乱に陥いり、立場は逆転しました。
ウィーンは数ヶ月前からずっと苦しめられていたというのに、ヤン3世が登場してからはたった1時間ほどの戦闘で決着が着いてしまったのです!
また別の機会にお話しようと思いますが、ポーランドは幾度もなく聖母マリアや神への祈りによって危機的な状態から救われています。信者以外からすると「ただの偶然だ」「根拠がない」と言われそうですが、私にはポーランド人の敬虔な心がポーランドを守ってきたとしか思えません。ポーランド史をよく学んでみると、その信じられない奇跡の数々に驚かれるでしょう。
ヨーロッパ中の国王や教皇が勝利を祝福し、ヤン3世とその軍隊はキリスト教会の守護者として賞賛を浴びました。
単なる領土争いの勝利ではなく、イスラム教徒に対するキリスト教徒の勝利なのですから当然です。
オスマン帝国はこの闘いでの敗北を受けて一気に衰退。こうして、ヨーロッパはムスリムの支配から免れたのでした。
しかし、この勝利から100年も経たない内にオーストリアはポーランドを裏切ります(ポーランド分割)。これには本当に神経を疑いますね…。
その後の報われない共和国
オーストリア、いやキリスト教諸国を救ったと言っても、それがきかっけで近隣諸国同士が仲良くなる…なんて夢のような話はありえません。
翌1684年にはウィーンの戦いでの勝利に触発された教皇の呼びかけにより、反トルコ神聖同盟が結成されましたが、それは共和国にとってライバル関係にある国々と勝利で得た優位な立場を分有するだけのものでした。
またウィーンでの戦い以前から続いていた17年にも及ぶオスマン帝国との戦いから、共和国の財政も更に悪化。
オスマン帝国に手をかけすぎたことから内政を置き去りにしてしまい、ロシアとの関係も悪化して完全に足下を見られているような状態に陥ります。
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かなりの辛口ですね(笑)。
オーストリアも広大な領域を獲得して勢力を強め、プロイセン公国もプロイセン王国に昇格。こうして、ロシア、オーストリア、プロイセンという18世紀の中東欧における3列強国が成立します。
そして、後に共和国をまるでパズルのピースのように分け合うのでした。
ヤン3世が存命の頃は彼も内政をどうにか改善しようと試みますが、この頃の国会はかつてのマグナート(大貴族)とシュラフタ(貴族)だけではなく、他国との陰謀を狙う者までいました。
政治を行っていたのはかろうじてポーランド側についていた一部のシュラフタでしたが、議員の間で賄賂が横行する中、もうどうにも出来ません。
ヤン3世も危機を感じたのか自身の息子を次の王にしようという野心を抱きますが、選挙王政となってしまった共和国にそんなものは通用しませんでした。
そして1691年以後は心臓発作に悩まされ、ヴィラヌフ宮殿での半隠棲状態の生活を送ることになります。
1696年に彼が亡くなるとドイツ出身のアウグスト2世が王位を継ぎますが、賄賂で国王に成り上がっただけあってポーランドは更にダメージを受けました。
それから間もなく共和国は地図から消される運命となりますが、腐りきってしまった政治を建て直すという意味ではその方が良かったのかもしれません。
ヤン3世を讃えた星座
さて、ちょっとテンションが下がったところで、もう一度ヤン3世の輝かしい栄光を思い出しましょう。
ローマ教皇さえ「ヨーロッパを救ってほしい」と彼に告げたんですよ。現在のバチカン美術館には「ソビエスキ王の間」という部屋が存在するほどです。
で、先日、そんな英雄を讃える星座があることを知ってビックリしました。
この「たて座」と呼ばれる星座は、十字架の描かれた楯の形をしています。
つい、「え?」と、もう一度写真を見直してしまった皆さん、天文科学者が言うからにはそうなんですよ。
これは1679年に自宅を焼失した、ヨハネス・ヘヴェリウスというポーランド人天文学者が作った星座です。
なんでも彼の自宅には天文観測装置や書物などがあり、観測所を兼ねていたのですが、それらを失うことになってしまったヨハネスのためにヤン3世が再建の協力をしたそう。財政は火の車といえど、彼は本当に良い国王だったんですね。
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skupiony/skupić się
skupiony(スクピオネ)は、「集中した」という意味の形容詞です。skupić się(スクピチ シェン)はその動詞。
“Moje dziecko nie umie się skupić”(モイエ ヂェツコ ニェ ウミエ シェン スクピチ:私の子どもは集中することが出来ません)、” Proszę się skupić i nie zerkać przez okno”(プロシェン シェン スクピチ ニェ ゼルカチ プシェス オクノ:窓をチラチラ見ないで集中しなさい)といった風に使います。