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【11〜12世紀初頭】ポーランドの歴史|早くも国家荒廃?&クラクフ遷都

ポーランドの歴史 10世紀〜11世紀初頭
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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. ポーランドの歴史

 当記事では、ポーランド王国誕生の1025年から12世紀初頭までの歴史を説明します。

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ポーランドの時代区分

ピャスト朝 966年〜1370年
 10世紀〜992年(ミェシュコ1世)
 992年〜1025年(ボレスワフ1世)
 1025年〜1102年(4人の君主)
 今ここ!
 1102年〜1320年(国家分裂時代)
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・リトアニア共和国 1569年〜1795年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年〜1939年
ポーランド人民共和国 1947年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜

ポーランドの歴史
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ポーランド君主3代目〜6代目

3代目君主:ミェシュコ2世
Mieszko II(990〜1034)
4代目君主:カジミェシュ 復興王
Kazimierz Odnowiciel(1016〜1058)
5代目君主:ボレスワフ2世 冷酷王
Bolesław II Śmiały(1042?〜1082?)
6代目君主:ヴワディスワフ1世ヘルマン
Władysław I Herman(1042?〜1102)

※王冠マークが付いている君主は国王

 ポーランド創始者ミェシュコ1世と初代国王ボレスワフ1世はそれぞれ別の記事で説明しましたが、2〜5代目はまとめて端的に紹介します。

ポーランドの歴史 10世紀
ポーランドの歴史 ボレスワフ1世
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ヴワディスワフ・へルマンの時代の領土

▲12世紀初頭のポーランドの領土

4人の君主の政治をザックリ説明

3代目 1025年〜1034年
ミェシュコ2世の治世

初代国王死後、息子ミェシュコ2世が王位を継ぐと同時に兄弟2人を追放。父と同様に反ドイツで攻めるが、度重なる戦争で国は弱体化し、追放した兄弟の反撃で領土は大幅に縮小された。ミェシュコ2世は国を追われ、晩年は皇帝の政治介入に疲弊ひへいする。


追放された兄弟との権力争い
 1031年、追放された兄弟の思惑もあり、ドイツ軍とルーシ軍がポーランドを同時攻撃。結果、父が獲得した広大な領土はドイツとキエフ大公国に併合。国を追われたミェシュコ2世はチェコで投獄され、弟ベスプリムに王座を奪われてしまった。
 翌年、皇帝の介入により王位を取り戻したが、追放した弟とデトリク(別の弟)と共にポーランドを治めることになる。しかし、ミェシュコ2世はオットー死後にデトリクを追放。ピャスト公家による支配を取り戻すも、領土は大きく失ったままであった。

4代目 1034年〜1058年
カジミェシュ1世 復興公の治世

ミェシュコ2世の死後、一人息子のカジミェシュ1世が即位。父と叔父の権力争いで荒れた国家を統治するも、困難な状況に一時国を去る。親戚の援助を受けて国へ戻り、チェコとの国交正常化やキエフとの同盟締結により国家を安定させ、領土を広げた。


侵略と反乱によりクラクフ遷都
 1038年頃、チェコの侵略と自然宗教派の大衆蜂起ほうきが発生。首都ポズナンとグニェズノが無秩序となり、カジミェシュ1世はハンガリーへ去った。侵略と暴動によって首都や大聖堂は破壊され、数々の財宝を略奪される。国家が無政府状態に陥っている間、カジミェシュ1世はドイツの親戚や皇帝の支援を受けてポーランド再建の準備を図った。
 国に戻ったあとは大衆蜂起を鎮圧し、キリスト教主体の体制を取り戻す。しかし首都は壊滅的被害だったため、宗教的にも栄えていたクラクフに首都を移すことになった。

5代目 1058年〜1079年
ボレスワフ2世 冷酷王の治世

カジミェシュ1世の死後、長男ボレスワフ2世が即位。1076年に戴冠する。ハンガリー、チェコ、ルーシと争い、初代国王のようにキエフを征服して身内をロシア王位に就かせた。しかし1079年にクラクフの司教スタニスワと衝突し、国を追放される。


国王の意思でクラクフ司教が殉教
 1079年、国王とクラクフの高位聖職者・司教スタニスワフが対立。結果、反逆罪としてスタニスワフは国王の意思によって殺害される。争いの原因はおそらく、国王のルテニア遠征中にスタニスワフが領地問題に関与したからという説が有力。スタニスワフの死後、国王は司教派だった貴族に追放された。追放後の行方は分かっていない。
 一方、殉教者のスタニスワフは1253年、ポーランド人初の聖人として列聖された。

6代目 1080年前後〜1102年
ヴワディスワフ・ヘルマンの治世

ボレスワフ2世の追放後、弟ヴワディスワフ・ヘルマンが即位。かなり慎重派であり、チェコやハンガリーと良好な関係を保てるよう努力した。しかし周辺国に依存し、国家を弱体化させる。また戴冠を断念し、以降2世紀にわたって国王は現れなかった。


国王の意思でクラクフ司教が殉教
 兄のボレスワフ2世はドイツの強い抗議にも関わらず、盛大な戴冠式を行った。しかし突然後継者となったヘルマンは君主としての心構えができておらず、兄の安否も把握できないために戴冠できなかったとされる。また、ヘルマンには強い野望がなく、ドイツとの戦争を避けようとしていた
 当時、皇帝と教皇は司教任命で激しく対立しており、弟ヘルマンは皇帝側について軍を支援している(兄は教皇派だったので戴冠できた)。王冠は教皇によって授けられるめ、そのような状況では戴冠はできなかった。

1102年〜
ヘルマンの息子たちによる共同政治

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夫Piotr
それぞれの君主が厳しい状況だったけど、この中で最も優れていた支配者はボレスワフ2世かな。当然、司教スタニスワフ殺害の件を除いて…。
あやか
1番批判されているのは最後のへルマン。ボレスワフ2世が司教と対立したのも深い事情があるにせよ、殺害さえしなければもっと良い方向に進んだだろうね。
ポーランドの歴史 12世紀前半
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あやか
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