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当記事では、ボレスワフ3世の治世と彼の遺言である 年長制領土相続制度(200年以上にわたる国家分裂時代)について説明します。
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ピャスト朝 966年〜1370年
10世紀〜992年(ミェシュコ1世)
992年〜1025年(ボレスワフ1世)
1025年〜1102年(4人の君主)
1102年〜1320年(国家分裂時代)
▲今ここ!
アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝 1386年〜1572年
ポーランド・リトアニア共和国 1569年〜1795年
ポーランド分割 1772年〜1892年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年〜1939年
ポーランド人民共和国 1947年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜
7代目君主:ボレスワフ3世 曲唇公
Bolesław III Krzywousty
(1086〜1138)
※ボレスワフ3世以降は頻繁に君主が変わるので省略
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▲ボレスワフ3世が1138年までに治めた領土
Bolesław III Krzywousty の治世
ヴワディスワフ・ヘルマンの死後、ポーランドは2つに分割される。へルマンの息子ボレスワフ3世とズビグニェフが同等の立場で統治するはずが、2人は与えられた領土に不満があった。争った末、ボレスワフ3世がクラクフを治めることになる。
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一般的にズビグニェフはポーランドの君主としてあまり知られていない。彼は長男だったが、母の属する教会の関係で最初から不利な立場にあった。攻撃的で野心溢れる弟ボレスワフ3世と、平和的解決・共存を望むズビグニェフは常に対立していた。
ボレスワフ3世はチェコへの遠征と侵略を何度も繰り返し、チェコは報復するも、それは地理的に近いズビグニェフの領土だった。2人の溝はますます深くなり、優勢だったボレスワフ3世はズビグニェフを追放。後に戻って来れたが間もなく殺害された。
ポメラニア地方の征服を目指し、1119年までにグダニスク含む領域を獲得。ハンガリー国王が亡くなるとハンガリーに標的を定めるが、遠征失敗。政治的孤立に陥り、教会政策も断念したが晩年には持ち直した。しかし皇帝への服従を余儀なくされる。
自身が兄と領土で激しく争ったこともあり、ボレスワフ3世は遺言で年長制相続制度(継承法)を導入した。君主の息子たちの間で領土を分割し、年功序列に従って年長者が最高権力を握るというもの。しかし、12世紀末には地域崩壊と分裂が始まった。
13世紀初頭にモンゴル帝国が成立し、急速に勢力を拡大した。モンゴル軍のヨーロッパ遠征でポーランドは3度も侵攻を受ける。都市は徹底的に壊滅され、捕虜や虐殺で大幅に人口を失ってしまった。これにより国家統一プロセスが大幅に遅れてしまう。
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最初の年長制相続制度の配分
ボレスワフ3世の(口頭による)遺言によると、「ポーランドを5つの地区(公国)に分け、4人の息子にそれぞれを与える。年長者は長子領としてクラクフ公国を治めることができ、またポーランドの最高権威者と見なす」とのことでした。
そこで長男ヴワディスワフ2世は首都クラクフのある長子領とシロンスク/シレジア領、つづいてボレスワフ4世はマゾフシェ領、ミェシュコ3世はヴィエルコポルスカ領を治めることに。実はもう一人、カジミエシュという息子がいましたが、ボレスワフ3世が亡くなったあとに生まれたようです(あるいは聖職者にするつもりだった)。真ん中のピンクのウェンツィツァ地方はボレスワフ3世の未亡人となったサロメアに渡りましたが、彼女が亡くなったあとは長子領に移されることになっていました。
すぐに始まった地域崩壊
ボレスワフ3世は後継者争いを回避するため、名指しで領土を与えたと考えられます。しかし、この相続制度は再び国家統合がなされる14世紀前半までに多数の内戦と地域細分化をもたらしました。年長者が必ずしも賢明な判断ができるわけではなく、また複数回の結婚により跡継ぎも多く、また彼らも最高権威者の座を狙っていたからです。
早くも1146年に長男ヴワディスワフ2世は追放されており、ボレスワフ4世が長子領を治め、彼の死後も頻繁に権力争いが繰り広げられました(約200年の間で30以上)。12世紀の終わりには深刻な地域崩壊が始まり、年功序列の原則は1180年に開催されたウェンツィツァ議会で撤廃されています。
謎の殺人事件、ゴンサヴァの血浴
1227年秋にポーランド諸公の地区会議がゴンサヴァ(ヴィエルコポルスカ地方)で開かれた際、「ゴンサヴァの血浴」として知られる殺人事件が起こりました。殺害されたのはクラクフ公レシェク・ビャウィ。やはり、これも長子領をめぐる権力争いの末の悲劇でした。誰が首謀者だったのかは不明のまま。また、ヘンリク1世というシロンスク領を治めていた後のポーランド大公も重傷を負いました。ちなみにレシェク・ビャウィは入浴中に襲われ、なんとか仲間とともにグニェズノへ向かって馬で逃げたものの、攻撃者に追いつかれて止めを刺されたのだとか…。かなりの殺意が感じられます。
モンゴルの侵攻で壊滅的被害
.13世紀末に国家統一の兆し
分裂した地域はそれぞれピャスト公家の親戚が治めるようになり、ザトル公国、オポーレ公国、オレシニツァ公国、オシフィエンチム公国…と国内にはどんどん公国が増えていきました。細分化すればするだけ各公国の戦力や権力が小さくなるため、いざ周辺国と戦うとなった際は不利となります。このままいくと国家消滅を招きかねないうえ、統一されていない国では大公ですら戴冠できません。そうして、13世紀末になってようやく「真面目に国家を統一しよう」という動きが出てきました。
1295年にはボレスワフ2世以来、216年ぶりにポーランド大公プシェミスウ2世がポーランド国王として戴冠。国家統一のために努力する彼は教会から絶大な支持を得たのです。しかし翌年に殺害され、ポーランドが王国に戻ったのは束の間でした。次に1300年、チェコ国王ヴァツワフ2世がポーランド国王として戴冠します。しかし、貴族の後援あって戴冠したヴァツワフ2世にはそれほどの権力がなく、彼の治世も長く続きませんでした(よその国の国王なのでそれでよし)。そして、後継者として息子ヴァツワフ3世が戴冠するも1306年に殺害され、ようやく次に現れたのが「国家を統一した王」として知られるヴワディスワフ1世です。
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