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前回の「ピャスト朝」の続編として書いているので、前回の記事を読んでいない方は先にこちらをご覧ください。
◆ポーランドの歴史◆
ポーランド初期 966年
ピャスト朝 966年〜1370年
プシェミスル朝
★アンデガヴェン家 1370年〜1385年
ヤギェウォ朝1 1386年〜1572年
ポーランド・
リトアニア共和国 1569年〜1795年
サス朝 1697年〜1763年
ポーランド分割 1772年〜1918年
ワルシャワ公国 1807年〜1813年
ポーランド立憲王国 1815年〜1867年
ポーランド共和国 1918年〜1989年
ポーランド共和国(現在)1990年〜
1370 - 1386 ハンガリーの王族が支えた16年間
1370年、ピャスト家最後の国王カジミエシュ3世が男子を儲けられなかったことが原因で、建国時から続いていたピャスト家の王位継承が途絶えました。
そこで1386年からはヤギェウォ朝という新たな王朝が成立します。
そして、この新たな王朝が成立するまでの16年間は、ピャスト家の親戚であったハンガリーの王家、アンデガヴェン家がポーランドの政治を担っていました。
1370年〜1382年の約12年間は、カジミエシュ3世の甥であったハンガリー王、ルドヴィク1世がポーランド王国の王となっています。
彼は、ハンガリーとクロアチアの王であったカロル1世を父に持ち、母はカジミエシュ3世の姉。しかし彼の存在はポーランド史にとってあまり重要ではなく、あくまでピャスト朝とヤギェウォ朝をつないだ人物に過ぎません。
それもそのはず。
ルドヴィク1世はポーランド王兼ハンガリー王であり、ハンガリー人としては当然ハンガリーを優先して政治を行いました。生涯の実績を見ても、やはりポーランドにおける政治的な大きな役割は果たしていないように見えます。
もちろん、その間もポーランド王国はドイツ騎士団やクリミア半島から攻めてくる敵(タタール)と戦うのですが、彼自身が指揮を執るということはなく、彼の軍がポーランド王国を守りました。
さて、彼の死後はルドヴィク1世の娘、当時10歳のヤドヴィガがポーランド王国の王を継ぐことになります。
聖女でもあるヤドヴィガは父とは打って変わって、ポーランド史における重要な人物の内の一人となりました。
彼女は12歳の時に、ポーランド王国を大きく前進させるきっかけとなったリトアニアの君主、当時35歳のヤギェウォ(リトアニア語で “ヨガイア”)と結婚しています。後に洗礼を授かったヤギェウォは、ヴワディスワフ2世というポーランド人としての名前を授かりました。
婚約時には、ポーランドが後にポーランド・リトアニア連合王国を形成する(最も重要なポイント)という内容の条約(クレヴォ合同)が結ばれており、また自然宗教を信仰していたリトアニア人を王族も含めてカトリックに改宗し、ヤギェウォによって奪われた領土は返還するなどの条件も含まれていました。
そして結婚を機にヴワディスワフ2世が王となったポーランド王国には新たな王朝、ヤギェウォ朝が成立します。
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ところで若くして亡くなったヤドヴィガですが、敬虔なカトリック教徒だった彼女は生涯にわたって学校や病院の建設、数多くの慈善活動に貢献し、また死後もカトリック教会の繁栄やプラハ大学の奨学金支援、貧しい市民の生活のために全財産を投じています。
しかし、ヤギェウォと結婚するまでの2年間、ヤドヴィガはポーランド王族とハンガリー王族、そしてオーストリアの婚約者の間で翻弄します。そのストーリーは次回お話ししましょう。
この時代の出来事
1370年 ハンガリー人のルドヴィク1世がポーランド王国の王の座を継ぐ
1384年 ルドヴィク1世の死後、娘のヤドヴィガが王女となる
1386年 ヴワディスワフ2世が王の座を継ぎ、ヤギェウォ朝が成立する
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1384 - 1386 ヤドヴィガ王女の翻弄された2年間
ピャスト朝とヤギェウォ朝の間の16年を繋いだのはピャスト家の親戚、アンデヴェガン家。その最後の国王はまだ幼女であったヤドヴィガでした。
そして彼女が12歳となった1386年、リトアニア公国の君主ヤギェウォと結婚。同時に彼もヤギェウォ朝の初代国王としてポーランドを治めます。
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ではなぜ、リトアニアの君主がポーランドにやって来たのでしょうか。
ヤギェウォがリトアニアの君主だった頃、当時のリトアニアはポーランド同様、ドイツ騎士団からの侵略にとても悩まされていました。
そこでヤギェウォはポーランド王女のヤドヴィガと政略結婚することによって国王となり、小国であるリトアニアの領土を守ることにしたのです。
小国とはいっても当時のリトアニアはポーランドよりもずっと大きかったのですが、人口は圧倒的にポーランドの方が上でした。上の地図でいうと、赤色がポーランド、黄色がリトアニアです。
また、現在の100ズゥオティの肖像画にもなっているヤギェウォですが、それほどまでにポーランド史上の重要人物となった理由は1385年のクレヴォ合同にあります。これこそがポーランドが最強の国となった鍵でしょう。
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クレヴォ合同の内容は以下の通り。
- 自然宗教を信仰しているリトアニアは、カトリックに改宗する(ポーランド王国はカトリック)
- リトアニアとルテニアをポーランド王国の領土とする
- ヤドヴィガの婚約者オーストリア公ヴィヘルムに婚約解消金として20万フローリンを支払う
- これまでの争いでリトアニアが奪ったポーランドの領土を返還する
- 捕虜と成って捕らえられたすべてのキリスト教の人々を釈放する
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この合同により、もう両者が領土のために争う必要はなくなりました。
リトアニアもカトリックへの全面改宗に同意したので宗教的理由で睨み合う必要もなく、また長年の敵であるドイツ騎士団を共に倒すことができるのはさぞ大きなメリットだったはずです。
ちなみにヤドヴィガの婚約者であったヴィヘルムはポーランドでは非常に評判が悪く、彼がヴァヴェル城に訪れた時は中にも入れてもらえなかったそう。再び訪れた時は城内にはどうにかして入ったもののつまみ出され、ヤドヴィガが「門を壊して戻ってきて」と叫んだにも関わらず、放り出されたという言い伝えまでありま す。
ポーランド側は最初からヴィヘルムではなくヤギェウォと結婚させたかったため、ポーランドとヤギェウォ(ヴワディスワフ3世)が互いにプラスの関係となるクレヴォの合同には大賛成。
もちろん、ヤギェウォをヤドヴィガの新しい婚約者として歓迎しました。
当時はヴィヘルムと結婚するつもりであったヤドヴィガですが、この合同のためにヤギェウォと結婚することを強要され仕方なく承諾したそうです。
ヴィヘルムは 10代(生年月日不明)、ヤギェウォは35歳、そしてヤドヴィガは12歳。ヴィヘルムとの婚約も政略的だったとはいえ、彼を好んだ彼女の気持ちも分からなくはありません。
こうして1386年1月、ヤドヴィガとヤギェウォは結婚。国王はヤドヴィガとヤギェウォの2人になりました。
次はいよいよポーランド王国の黄金期でもあるヤギェウォ朝です。
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