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先日、クラクフ国立美術館で第一次世界大戦時のポーランド軍(Legiony Polskie)に関する特別展示(2017年12月末展示終了)を見てきました。
私はどちらかというと中世の歴史のほうが好きなのですが、当時の自由と戦うポーランド軍が描かれた絵画を見ていると、あっという間に30分が経過。
もう、「これは記事にせねば!」と決意せざるをえ得ませんでした!そこで、当記事では第一次世界大戦時に活躍した英雄ユゼフ・ピウスツキ率いるポーランド軍 Legiony Polskie を解説していきます。
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Legiony Polskie レギオネ・ポルスキエ
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ユゼフ・ピウスツキとは
まず、ポーランド軍そのものについてお話する前に、ユゼフ・ピウスツキ(1867年〜1935年)という英雄を紹介しておく必要があります。
ユゼフ・ピウスツキは第二次ポーランド共和国の建国の父であり、今回紹介するポーランド軍の創立者。独裁的な政治家でありながらもポーランドが多民族国家となることを目指し、亡き国を復活させた彼は愛国心に満ちていました。
ポーランドのレストランや一般家庭では、たまにユゼフ・ピウスツキの絵や小さな銅像を見ることもあります。
さて、このピウスツキが活躍した時代の背景をかんたんに説明しましょう。
ポーランドは1569年から1795年の226年間、ポーランド・リトアニア共和国としてヨーロッパ史上最大、かつ最強の国として恐れられていました。
しかし18世紀なると軍事政策や経済面でだんだんと衰えを見せるようになり、1772年、プロイセン、ロシア、オーストリアによって3つに分割されます。
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ポーランドが分割された本当の理由、それはポーランドが16世紀から採用していた議会制民主主義に原因があるといえるでしょう。当時のヨーロッパといえばもっぱら君主制であり、ポーランドのような国会制度を持つ国はかなりユニークとされました。
画期的な民主主義はポーランドに黄金の自由と史上最大の全盛期をもたらしましたが、同時に腐敗を招きます。
表決においては、国民の10%を占める全貴族(シュラフタ)が投票権を持っており、これが問題でした。全貴族のうち一人でも「私は賛成しない」といえば、議会はやり直しだったのです。これが他国であれば、王が「私はこう命じる」と言えば下の者は上に従うだけ。そして、共和国の大貴族(マグナート)も自分たちの権利が制限されていることに不満を抱いており、これらの行き違いの結果、ポーランドが分割されてしまったのです。
そして1795年の第三次ポーランド分割以降、ポーランドは123年間地図から消されることになりました。
この123年間、多くのポーランド人が祖国の復活を夢見て戦います。そんな中、ついにポーランド独立を実現させたのがユゼフ・ピウスツキでした。
ピウスツキは1867年、ジュウゥフという小さな町(現リトアニア)で誕生します。貧しいポーランド貴族の家庭に生まれたピウスツキは、ロシア政府を嫌っていた母マリアの影響を受けました。
1863年、ポーランド人は武装蜂起(一月蜂起)をロシア帝国に対して行ったものの、敗北。その結果、多くのポーランド人が処刑され、以前より厳しく抑圧されていったのです。19世紀後半、ポーランド人の反ロシア感情はさらに強いものと化していきました。
青年ピウスツキは、ポーランド社会党の創立をきっかけに政治家となります。
ポーランド社会党といえば現在では共産主義に結びつくネガティヴなイメージですが、元は労働者に権利を与えるという政治グループであり、当時はそれなりに支持されています(現在の支持率は1%未満)。やがて社会党のリーダーとなったピウスツキは、 “Robotnik”(労働者)という名の地下新聞をも発行しました。
しかし1906年、ポーランド社会党はロシア第一革命の影響を受け、親ロシア的な態度になります。反ロシアのピウスツキは社会党から孤立し、ロシアの輸送列車から盗んだ金で私設軍隊を創設。
この私設軍隊が後のポーランド軍であり、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、国内初の軍事会社としてクラクフから戦場まで行軍しました。
ピウスツキはドイツ・オーストリアと協力して軍団を組織し、ロシアと戦います。
しかし、ドイツがロシアに勝ったとしてもポーランド独立の手助けをするつもりがないことに気づき、反ドイツ姿勢となった結果逮捕されてしまいました。
さらに1915年、ドイツ軍はロシアが占領する旧ポーランド領に侵攻。
ロシアは対抗できず、旧ポーランド全土を放棄。
ロシアが手放した領土はドイツが占領しました。
一方、独立のために命がけで戦うピウスツキやポーランド軍の存在を知ったポーランド人は、ポーランド独立に熱い期待を寄せます。
そして1918年11月、ドイツの敗北で戦争は終結。
大戦中に投獄されていたピウスツキは、ドイツ革命の混乱に乗じて出獄。
1918年11月10日には祖国のヒーローとしてワルシャワに到着しました。
こうしてピウスツキは第二次ポーランド共和国の国家元首となり、翌年1月にはパデレフスキ首相による内閣を発足しました。その後はクーデターを起こして政府側から批判されたものの、ポーランド人や国内に住むユダヤ人から絶大な支持を得ることに成功しています。
その後1919年、パリで「ヴェルサイユ条約」が結ばれました。
この条約が結ばれたのはパリ講和会議で、その会議には日本を含む5大国を中心に合計32ヵ国が出席しています。
会議の目的は「世界平和の統一機関をつくって、二度と第一次世界大戦のような悲劇は生まないようにしよう」という平和主義のもとで行われました。
ヴェルサイユ条約は戦争末期に米ウィルソン大統領が唱えた「14ヵ条の原則」を基本原則とし、条約には「民族自決」が盛り込まれていました。
帝国主義のもとで他国の領土や植民地とされた各民族集団が、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする権利です。
こうして(大戦終了直後にさかのぼって)1918年11月11日、めでたくピウスツキ(ドイツ革命の混乱時に出獄)を初代国家元首としてポーランド第二共和国が誕生。
大戦中にドイツ占領下となっていた旧ポーランド領は新生ポーランドとして復活したのです。
ヴェルサイユ条約でポーランドがドイツから得た領土は、ポズナンと西プロイセン、(後にヒトラーがポーランドに戦争を仕掛ける口実となった)ポーランド回廊と呼ばれた地域。ピンクの部分が現在のポーランド領土、赤線で示された国境が第二共和国時代のものです。
1939年の第二次世界大戦勃発まではこれらの領土を維持することができました。
新生ポーランドでは議会制民主主義を採用することで立て直しを図りますが、実は常に危機的状況だったようです。それは国家の存続問題ではなく、小党派が乱立して政治が機能していなかったり、また経済的問題から来るものでした。
しかし、ピウスツキは1935年にこの世を去るまでの間、ポーランド国民からの絶大な人気を得て最後まで独裁的な政治を行います。独裁とはいっても彼は反ユダヤ主義に否定的であり、またポーランドが多民族国家として育つように考えていました。そのため、国内のユダヤ人からも支持されていたようです。
ピウスツキはポーランド・リトアニア共和国の復活を目指しており、またウクライナも(リトアニアのように)共和国の一部になるべきだと考えていました。
それもあって、ヒトラーがソ連に対抗しようとポーランドに歩み寄ったとき、ナチスの反ユダヤ的な考えや過激な民族主義に賛同できなかったピウスツキはドイツと同盟を結ぶことを拒みます。
それよりもドイツが第一次世界大戦の影響で弱まっている間になんとか対処せねばと考え、イギリスやフランスに協力を促しました。ここでもし、彼らがピウスツキの意見を受け入れていれば、第二次世界大戦はこれほどまでの悲劇と犠牲を生まずに済んだかもしれません。
1935年3月12日、ピウスツキは肝臓癌でこの世を去りました。そして彼の死から4年半年後、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。
ポーランドは間もなくドイツとソ連に全領土を占領され、1945年まで再び地図の上から姿を消すことになるのです。
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▲ピウスツキと娘2人
ピウスツキは日本に訪れたことがあり、また文化人類学者である兄ブロニスワフ・ピウスツキは北海道に移住し、アイヌ人と結婚しています。
なんと、日本とも縁のある人物だったのですね!話すと長くなるので、また別の機会(記事)でお話しましょう。
20世紀前半のポーランド軍
ここで登場する Legiony Polskie(レギオネ・ポルスキエ)は、1914年8月に発足したオーストリア・ハンガリー軍の一部としてのポーランド軍です。
第一次世界大戦ではロシアと戦い、指揮はポーランド語で行われました。
最初はピウスツキが結成した小さな軍事集団でしたが、1916年6月には15,000人の兵員となり、1919年9月には54万人となっています。
当時の戦いで最も有名なものといえば、ポーランド=ソビエト戦争。
第一次世界大戦後の1919年2月からの約2年間、ポーランドはソビエト・ロシアと戦います。戦場はポーランド、ウクライナ、リトアニア、ベラルーシ、ラトビアと広範囲に及びました。
なぜポーランドはロシアを攻めたか。
それは、ピウスツキはかつて繁栄したポーランド・リトアニア共和国の領土回復、そしてベラルーシ西部とウクライナ西部を占領して共和国の一部にしようという野心を抱いていたからです。
当時のロシア国内は内乱と外国干渉で疲弊しており、ポーランドにとっては奪われた領土を取り戻す最大の機会でした。
そして1920年5月、キエフを占領したポーランド軍。同年8月のワルシャワの戦いでの「ヴィスワ川の奇跡」は、今でもポーランド国民の間で熱く語り継がれています。結果、この戦争で勝利をおさめたのはポーランドでした。
ゆえに、ポーランドは独立したのです。
ドイツが第一次世界大戦に敗戦したことで独立を果たしたポーランド。
しかしこのロシアとの戦争でもし負けたとなれば、ポーランドは再びロシアに占領され、今度は永遠に地図から姿を消したかもしれません。他の国も……。
毎年8月15日、この日はカトリック教会の祝日で「聖母マリア被昇天の祝日」と呼ばれますが、同時に「ヴィスワ川の奇跡」を祝う日でもあります。
下記記事では両方について説明してるので、興味のある方はお読みください。
(2017年8月に公開予定)
ポーランド軍の絵描きたち
この記事を書こうと決めたきっかけ、それが国立美術館での期間限定展示「ポーランド軍作品展」(2016年6月3日〜2017年12月末)でした。
1916年3月18日、歴史家イェジェ・メチェルスキはポーランド軍がテーマの個展を開きます。展示された作品の数は500点を超えるもので、本来は一ヶ月限定の展示であったにも関わらず5月まで延長されたんだとか。
1916年といえば、ポーランドが独立する前のことです。当時この個展に訪れた人々は、どのような思いで勇ましいポーランド軍の絵を眺めたのでしょうか。
第一次世界大戦時に結成されたポーランド軍には、約180人の画家、彫刻家、版画家がいたといいます。
クラクフ美術学校の学生30人も参加し、後に2人の女性も活躍しました。
戦場アーティストと呼ばれる人々が前線で戦うポーランド軍を描き残したのです。命がけで絵を描き、また軍人として活躍した人々がいたのには驚きました。
この作品展の開設には、現在のポーランドにとっても特別な思いがあります。
記念祭典のようすが国立美術館のホームページで公開されているので、ぜひ見てみてください。そして、クラクフに滞在される方は国立美術館に訪れるのを忘れないようにしてくださいね!
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.patriota
patriota(パトリオタ)は「愛国者」という意味です。女性の場合は -tka と語尾を変え、”patoriotka”(パトリオトカ)といいます。
Józef Piłsudski jest wielką patriotą(ユゼフ ピウスツキ イェスト ヴィエルコン パトリオトン)は「ユゼフ・ピウスツキは偉大な愛国者だ」という意味です。ポーランド人にこのセリフを言うと、かなりビックリされるとともに喜ばれるでしょう(笑)。
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ポーランドには「ピウスツキ通り」「ピウスツキ広場」「ピウスツキ橋」「ピウスツキスタジアム」など「ピウスツキ」の名前を冠した公共施設がたくさんありますよね。このことからもピウスツキが国民から英雄として崇められていることが分かりますね。
服部様
こんにちは。
コメントの承認が遅れてしまい、大変失礼しました。
私もこの記事を書いてから、ピウスツキというワードに敏感になりました。
至るところに「ピウスツキ」の文字が見られますね。
これからも、ピウスツキはポーランドの英雄として語り継がれていくでしょう。