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【ワルシャワ蜂起を知る】8月1日17時、ポーランドの街が動きを止める理由

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クラクフ市公認観光ガイドの綾香です。旅行や生活に欠かせないポーランド情報を発信中! 2025年、東アフリカ・ルワンダでの教育支援に向けて【財団法人MOST】を設立。興味のある方はご連絡ください
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※この記事は複数の記事を統合しており、まだ編集前の段階です。
やや読みにくいかもしれませんが、いずれ編集します。もうしばらくお待ちください。
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ドイツ軍に破壊されたワルシャワ
ドイツ軍に破壊されたワルシャワ

 

ワルシャワでの武装蜂起

ポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦、ドイツ軍による首都ワルシャワの占拠、ナチス・ドイツの政策によるポーランド人への迫害、虐殺、拷問…。

そんな憎きドイツ軍からポーランドを守るため、ついにポーランド人たちは大々的な作戦を実行します。

それがワルシャワ蜂起でした。

ワルシャワ地下国家
ポーランド地下国家のイメージ

この時のワルシャワに住むポーランド軍は、ロンドンにあるポーランド亡命政府の協力のもと、ポーランド地下国家というものをワルシャワの地下に建設しています。建設、といっても敵に気付かれてはいけないので、地下を掘り進めて新たな国をつくったのではありません。

しかし地上はドイツ軍が占拠しているため、地下に潜伏してこっそりと活動するしかなかったのです。ワルシャワ蜂起もこの地下国家で練られた打開策でした。

作戦を練るポーランド国内軍
作戦を練る国内軍

実はこの蜂起は、敵であったソ連軍の協力と見せかけた蜂起の呼びかけ(※)がきっかけで計画されています。

「ソ連といっしょに戦えば、ドイツ軍を倒せるかもしれない!」

そんな希望を胸にして1944年8月1日17時00分、ポーランドはワルシャワ蜂起を決行。この蜂起では国内軍のみならず、圧倒的に不利な状況の中、女性も子どもも皆戦いました。

間もなく蜂起の報告を受けたヒトラーは、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底破壊をドイツ軍に命じます。

弾圧にはその残虐性で有名なカミンスキー旅団やSS特別連隊が加わり、ポーランド人に対しての略奪や暴行、虐殺が繰り返されました。また蜂起参加者のワルシャワ市民はテロリストとされ、多くの人々がナチス・ドイツによって処刑されています。それでも蜂起軍は最後までドイツ軍と戦うことをやめませんでした。

戦うポーランド国内軍
戦うポーランド国内軍

しかし、63日にも及んだ必死の抵抗は無惨な結果に終わります。

犠牲者としてポーランド蜂起軍の死者数は約18万〜25万人、ドイツ軍では約1万7千人。後に70万人もの人々がワルシャワから追放されますが、悲劇はこれだけに留まっていません。

ソ連軍の裏切り行為
1944年当時、ドイツ軍を攻めていたソ連軍は、ワルシャワにいるポーランド人に「我々もドイツ軍を攻撃するから、蜂起をするように。いっしょにドイツ軍をやっつけよう。」と呼びかけました。敵と協力するのは真意ではありませんでしたが、ドイツ軍をどうにかしなければと考えていたポーランド人はソ連軍の案に承諾します。しかし、蜂起の間にソ連軍がポーランドに協力的な支援をすることはなく、ソ連軍は重大な裏切り行為を犯しました。その裏切りを許せなかった生き残りのレジスタンスたちは”呪われた兵士” と呼ばれていたそうです。

 

やっと、すべてが終わった

ワルシャワ蜂起の終焉が訪れたのは蜂起決行から63日後の10月2日。

抵抗を続けていた国内軍はナチス・ドイツによってほぼ潰滅状態でしたが、終結してもなお、ドイツ軍はワルシャワの街を徹底的に破壊し続けました。すべては蜂起を起こした報復。ワルシャワは見るも無惨な姿となり、戦後ワルシャワに生き残ったポーラン人はわずか…。

戦死した者を弔う少女
戦死した者を弔う少女

そして蜂起から翌年の1945年、第二次世界大戦はついに終結します。

何もかも失ったワルシャワでしたが、後にワルシャワ旧市街は戦後のポーランド人の熱い想いもあって壁のヒビ1本に至るまで完全に復元されました。戦前の写真や絵を見ながら、忠実に。

努力が報われたかのように旧市街は1980年にワルシャワ歴史地区という名で世界遺産に登録され、今ではあの過去の忌まわしい出来事が噓だったかのように大勢の観光客で賑わっています。

また当時のことは決して忘れてはいけないと、戦争時代のポーランドを後世に伝える博物館(ワルシャワ蜂起博物館、パヴィアク刑務所博物館、ユダヤ人歴史博物館など)も建設されました。

これらの博物館は時間が許すのであれば、絶対に訪れてほしいです。

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この記事のまとめ

この記事を読むだけで、ポーランドの苦難の歴史と彼らの愛国心がどれだけ強いものか伝わってきたはず。

ワルシャワ地下国家の象徴
ワルシャワ地下国家の象徴

もうワルシャワを「ショパンの街」「美しい世界遺産の街」などと言ってられないですね。ここで数十万人ものポーランド人が愛するポーランドを守るために、命をかけて戦ったんですから。

このワルシャワだけで私たちが学ばなければならないことは沢山あります。

せっかくの観光、暗い過去から目を背けて旅行を満喫したい気持ちも分かりますが、ワルシャワに来られるのであれば今一度、私たち人類が犯した過ちと向き合ってみるべきではないでしょうか。

 

 

毎年8月1日17時、ポーランドではサイレンが響き渡ります。そのサイレンはどこかで聞いたことのあるような、なんだか不気味にすら感じられる音。

なんのサイレン?

じっくり考えなくても、この音と今が夏であることを重ねれば、それが自然と戦争に関連するものだと気付くでしょう。

 

止まっているようすを見る こちら
止まっているようすを見る こちら

GODZINA “W”
ゴジナ “ヴ” = 戦い、勃発の時

 

第二次世界大戦のまっただ中であった1944年8月1日17時、祖国を守るためにワルシャワの全市民がドイツ軍に立ち向かいました。ワルシャワ蜂起です。

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ことの始まりは1939年9月1日。

ドイツ軍の不当な言い分をきっかけにポーランドは侵略されました。

ポーランドに侵攻するドイツ軍とヒトラー
ポーランドに侵攻するドイツ軍とヒトラー

ポーランドを我が国のものにするために手段を選びばなかったヒトラー。

平和を好んでいたポーランドは軍隊の数も少なかったのですが、それでも黙って降伏をするわけにはいきませんでした。そして、イギリスやフランス(同盟国)を頼り、敵と戦う決意をします。
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ポーランド国民に召集を告げる。
今日の夜、敵(ドイツ)がついにポーランドに侵攻した。
しかし、私たちはこれまで苦難の時代を経て、祖国を守り抜いてきた。そして、今も神と築き上げてきた歴史によって見守られている。私たちにはいつも神がついている。だから、決して恐れることはない。

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この言葉は、クラクフのシンドラーの工場博物館に貼ってあった当時のポスターを自分なりに翻訳したものです。

ここでいう神は、キリスト教の「神」のこと。ポーランドはどんな時も神と名誉という言葉を掲げ、他国に侵略されようが、地図から消されようが希望を持って祈り、そして潔く戦ってきました。

123年間、地図から姿を消した時、ただ黙ってその時を凌いできたわけではありません。祖国を愛するポーランド人がどんな状況でも敵に立ち向かってきたからこそ、復活を成し遂げたのです。

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しかしやっと独立を果たしたと思えば、すぐに第二次世界大戦の勃発。

ポーランドはまたもや憎き敵、ドイツとソ連に攻められました。ナチス・ドイツの政権下、ドイツの目的は残酷な手段でポーランドを自国のものとし、それだけでなくユダヤ人やポーランド人らを抹消することにあったのです。

ポーランドの領土はどんどん侵され、多くのポーランド人が戦死だけではなく迫害によって命を落とました。

そんな中、ワルシャワ市民はドイツに反撃するためにワルシャワ蜂起を決行。

作戦を練るポーランド国内群
作戦を練るポーランド国内群

しかし、63日間にも及んだこの蜂起は、無惨な失敗に終わりました。

20万人以上のワルシャワ市民が亡くなったこと、その後のドイツ軍による徹底的な反撃を考えると、この蜂起は決行しなかった方がよかったでしょう。

でも誰がここまで残酷な結果に終わることを予想できたでしょうか。

もし、ソ連の裏切りがなければ…。

負けたポーランドはワルシャワを粉々に破壊され、残った市民は追放、虐殺された挙げ句、第二次世界大戦終結後はソ連の衛星国となりました。

本当に屈辱の時代だったと思います。

現在のワルシャワ
現在の平和なワルシャワ

日本でも毎年この時期になると、戦争に関するドキュメンタリーやドラマが毎日のように放送されますが、それはポーランドでもいっしょです。

PAMIĘTAMY
私たちは決して忘れない

あれから70年と経った今、どんどん戦時中の記憶が風化されつつありますが、私たちが今出来ることは「忘れないこと」ではないでしょうか。

歴史を忘れる者は同じことを繰り返す。

この言葉はアウシュヴィッツでも見られますが、本当にその通りだと思います。しかし、私たちは忘れては同じことを繰り返してしまう悲しい生き物です。

いつまでも過去にとらわれるな、とは言いますが、こういうことに限っては正しいと言えません。自分を兵士に置き換えて、迫害された者に置き換えて「戦争とは何なのか、何を残すのか」ということを真面目に考えることが大事です。

 

1944年8月1日17時

この日のこの時刻は “W” と呼ばれ、毎年8月1日が近づくと至るところで “W” のポスターが貼られます。

"名誉" と書かれたポスター
“名誉” と書かれたポスター

そして8月1日17時、サイレンがポーランド全国に響き渡り、ワルシャワでは人々が動きを止めて黙祷を捧げます。

あの日、ワルシャワ蜂起で亡くなった20万人のポーランド人兵士と女性、子ども達の死を悼みながら…。そして名誉ある行動に命を賭けた、かつてのポーランドの英雄に祈りを捧げながら。
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今日のポーランド語

wojna

wojna(ヴォイナ)は名詞で「戦争」。第二次世界大戦は druga wojna światowa(ドゥルガ  ヴォイナ  シフィアトヴァ)と言います。

 

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1件のコメント

大滝史郎 より:

私が昨年訪ねたポーランドとバルト三国について、今年4月に報告する機会ができ、再度ポーランドの歴史を勉強しています。
そうした中で、Wという時刻のことを知り、貴ブログに再度アクセスすることになりました。
勉強になります。
あなたが言うように歴史を忘れてはいけませんね。記憶にとどめおくことは大事です。

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