【まとめ】アウシュヴィッツで殉教した聖コルベ神父の生涯



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私がアウシュヴィッツ博物館でお会いする方はよく、「ここに訪れることが最大の目的でポーランド旅行を決めた」と仰います。
その中でも「アンネフランクの日記」がきっかけである方も多いですが、意外にも日本に縁のあるコルベ神父を知っている方は多くありません。

コルベ神父をよく知らない方、知っている方の両方の皆さんに読んでいただきたく、去年長崎を訪れた機会にこの記事を書くことにしました。

何十回とアウシュヴィッツを訪れた私が思うこと

2017.02.16
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このページの目次
1. コルベ神父とはどんな人物?
運命の悟り、聖母のビジョン
聖職者の道を歩む
聖母の騎士会の創設者として
2. 日本・長崎での宣教活動
3. アウシュヴィッツでの殉教
パヴィアク刑務所での出来事
アウシュヴィッツに送られる
ある一人の囚人の脱走
いよいよ殉教のときが訪れる
4. 実は体がとても弱かった
5. 長崎で訪れるべき関連の地
6. 他人を友のように愛すること
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コルベ神父とはどんな人物?

Maksymilian Maria Kolbe

マキシミリアノ・マリア・コルベ(出生名ライムンド・コルベ)は1894年、ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラという町に生まれました。

カトリック神父であったため通称コルベ神父と呼ばれ、カトリックの聖人(1982年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖)として主にポーランドや日本で深く崇敬されています。

アウシュヴィッツで亡くなった多くの人々の一人ですが、彼は他人(友)のために命を捧げた殉教者という面で特筆すべきであり、アウシュヴィッツのツアーでは必ず触れられる人物です。

 

運命の悟り、聖母のビジョン

聖母マリアのビジョン

幼き頃のコルベは決して裕福とはいえない家庭で育ち、また多くのポーランド人家庭がそうであるように敬虔なカトリック教徒でした。

そんな彼がまだ12歳だったとき、手に赤と白の王冠を持った聖母マリアのビジョンを見ます。

聖母マリアは「赤は殉教の赤、白は純潔の白」という意味を伝えたうえで、少年コルベにどちらの冠を望むか尋ねました。

そして、彼はその両方を受け入れます。

赤は血の色、白は純潔の象徴ですが、後者は教会に聖職者として奉仕することを指します。
カトリックの聖職者は生涯独身を貫くため、純潔を保つ必要があるのです。
そして少年コルベは聖職者になること、また自分の死が殉教であることを自覚したのでした。

映画化されたコルベ神父の生涯

2017年10月、「二つの冠/Dwie Korony」というコルベ神父の生涯をつづった映画がポーランドで上映されました。
まだ日本では正式にDVD化されていませんが、一部字幕で公開されています。
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YouTube「二つの冠」part1
YouTube「二つの冠」part2
YouTube「二つの冠」part3

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聖職者の道を歩む

カトリックの司祭になる

1910年、16歳のコルベはリヴィヴ(現ウクライナ領、1910年当時はオーストリア領だがもともとはポーランド領だった都市)のフランシスコ会の神学校で研究を始めました。

この頃、ライムンドからマキシミリアノの名に代え、1914年12月には聖職者マキシミリアノ・マリア・コルベとしての誓いを立てます。

1912年、彼は当時オーストリア占領下にあったクラクフで勉強をし、優秀であったため数ヵ月後にはローマの大学に送られました。
そして1915年には哲学、1919年には神学の博士号を取得し、ポーランドに帰国します。

ちなみにコルベは数学や物理にも深い関心を持っており、宇宙旅行実現のためのロケットをプロジェクトしたこともありました。
幼き頃から見せる異才ぶりに、周りの大人は聖職者になることが惜しいと思ったほどです。

そうして1918年4月28日、25歳のときにローマにおいて司祭に叙階しました。
1919年から1922年、コルベ神父は教会史の教授としてクラクフの大神学校に務めており、聖フランシスコ教会に拠点を置いています。

聖フランシスコ教会

クラクフ旧市街、中央広場から南へ数分歩いたところに聖フランシスコ教会があります。

立派な回廊を持つ修道院と、13世紀のレンガ造りの教会内部に見られる珍しいアール・ヌーヴォーの壁画は必見。西に背を向け、右側中央にコルベ神父の副祭壇があります。

私のツアーガイドでこちらの教会の案内を希望される方はお気軽にお申し付けください。

ただし日曜日やミサの時間帯に重なる場合、案内エリアの関係でプランに組み込むことが難しい場合などは対応致しかねます。

ガイドの申し込みはこちら
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聖母の騎士会の創設者として

引用:http://niepokalanow.eu

ローマの神学校にいる間、コルベは友人とともに、聖母の騎士会を創立しました。
現在全世界に400万人を越える信徒をもち、日本ではコルベ神父自らによって広められます。

その主な伝導方法は月刊誌「汚れなき聖母の騎士」という雑誌の発行であり、当初と変わらず今もなお多くの信徒に読み続けられています。

1922年1月、コルベ神父は神学校時代のメンバーと連絡を取り合い、「汚れなき聖母の騎士」の発行に取り掛かりました。
目的は聖母マリアの愛と神の導きを人々に分かりやすく伝え、そして改心を願うもの。

しかし実際に原稿を書き、版をつくって印刷し、それらを発送するといった作業はコルベ神父がほとんど担うことになり、また周囲に受け入れられるのにも時間を要しました。
1938年には100万部を突破し、この頃には多くの修道会メンバーに支えられています。

カトリックの信心会とは

カトリック教会はプロテスタント教会のようにさまざまな教派は持たないものの、フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会などの修道会という組織がいくつも存在します。
修道会のメンバーは聖職者に限らず、カトリック教徒であることは絶対的条件として、既婚者や一般の信者も活動できるのが特徴です。
これらの修道会は有志だけによるものではなく、教皇庁の認可を受けなければなりません。

そして修道会のメンバーがさらに、信心会というものを設立することがあります。
これも信者たちによる組織であり、修道会という全世界に広がる大きな組織と比べて、より身近で親密的な活動を行っています。

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日本・長崎での宣教活動

仲間の修道士と、長崎にて

コルベ神父が宣教師として、長崎に上陸したのは1930年、36歳のときです。
日本でもポーランドと同じく「汚れなき聖母の騎士」の出版を始め、また大浦天主堂下の木造西洋館に仮ニェポカラヌフ修道院を設立しました。
また、東方宣教を目指していたため中国とインドにも同様の修道院を設立しています。

ニェポカラヌフというのはポーランド語ですが、コルベ神父はそれを分かりやすく理解してもらうために「汚れなき聖母の町」と表現しました。
最初のニェポカラヌフ修道院は1927年、ワルシャワ近郊に寄贈された土地に設立され、今でも多くの巡礼者が訪れています。

日本滞在最初の一年間は大浦天主堂の近くで過ごし、後に現在の聖母の騎士学園となる長崎市内本河内町に移転しました。

母国へ帰るまでの約6年間、コルベ神父は月刊誌の原稿執筆発行や大浦神学校で哲学教授として教鞭をとったり、多忙な日々を過ごします。
やがて小さなラジオ局を通しての宣教活動も開始し、確実に成果を上げていきました。

しかし、いくらカトリックへの理解が深い長崎とはいえ、慣れない日本語と異文化を目の前にしての宣教はポーランドでのそれ以上に苦労を伴うものだったに違いありません。

1936年、コルベ神父は世界最大のフランシスコ会修道院となったワルシャワのニェポカラヌフを管理するため、ポーランドに帰国します。
1939年9月、修道院には700人以上の修道士を持つほどの規模となっていました。
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アウシュヴィッツでの殉教

アウシュヴィッツ強制収容所

1939年9月1日、いよいよ第二次世界大戦が勃発し、ワルシャワでの修道院運営と公での宣教活動に大きな支障が出始めました。

1937年末頃には全国的なラジオ放送も実現しましたが、ナチスはポーランド人にラジオを聞くどころか持つことすら許さなかったのです。
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パヴィアク刑務所での出来事

現在のパヴィアク刑務所跡

戦争が始まって半月経ったところでニェポカラヌフに残っていた修道士たちは逮捕され、当然コルベ神父もその中の一人となりました。
一度は解放されたものの1941年2月17日に再び逮捕され、厳しい尋問の後にワルシャワのパヴィアク刑務所に投獄されます。

そして、この期に及んでもなお信仰を貫くコルベ神父に激怒したドイツ兵は、彼の顔がミミズ腫れになるほど殴り続けたことがありました。
周りが興奮して落ち着くことができない中、それでもコルベ神父は冷静だったそうです。

聖書にはこのような言葉が刻まれています。
右の頬を殴られたら、左の頬をも差し出しなさい」(マタイ福音書5:39)
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アウシュヴィッツに送られる

家畜用貨車でアウシュヴィッツへ

1941年5月29日、コルベ神父はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に送られます。
あるポーランド人は神父がアウシュヴィッツに連れて行かれることのないよう手を打ちますが、ナチスの決定は避けられませんでした。

アウシュヴィッツでは16670の囚人番号を刻まれ、ユダヤ人と同じように激しく体力を消耗する仕事を割り当てられました。

収容所の囚人は皆同等ではなく、囚人でありながらも威張ることのできる監視役(カポ)も存在し、その反面たいていの囚人は数ヶ月以内に命を落とすほどの過酷な労働を与えられます。
その中でも、ユダヤ人とキリスト教聖職者への扱いは特に酷く、堪え難いものでした。

それでもコルベ神父は誰の助けを必要とするわけでもなく、与えられた仕事をこなします。
健気であるばかりにドイツ兵に目を付けられ、徹底的にいじめ抜かれ、最終的には仕事ができないほどに体を痛めつけられました

やがて収容所内の名ばかりの病棟に入れられ、若干の回復を見せても労働不能者のレッテルを貼られ、死へのカウントダウンが始まります。
しかし、それでもまだコルベ神父が息絶えることがなかったのは殉教を果たすためだったのです。
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ある一人の囚人の脱走

身代わりを申し出るコルベ神父

ナチスは囚人の脱走を防ぐためにあらゆる対策を打ち、最終的にあるルールを生み出しました。
それは、一人の逃亡者が出ると無作為に十人の者を選び、彼らを餓死刑に処するというものです。

そして、とうとうコルベ神父が殉教を友のために決意する日がやってきました。

1941年7月末、夕方の点呼である一人の囚人の不足が分かったとき、誰もが嫌な予感を感じずにはいられなかったでしょう。
翌日、副所長によってやはり昨日の囚人が見つからなかったことが告げられました。

気まぐれに十人の囚人が選ばれます。
その内の一人にフランチシェック・ガヨヴニチェクというポーランド軍曹の姿がありました。

彼はすすり泣きながら、こう呟きました。
さようなら。私には妻と子どもたちがいる。可哀想な子どもたちは孤児になるんだ

その言葉を耳にしたコルベ神父は前に進み、若い父親の身代わりになることを申し出ました。
自分は聖職者であり、悲しむ妻も子どももいない、故に自発的に死を選ぶというのです。
他人のために命を差し出す、その思わぬ行動に驚いたのは周りの囚人だけではありませんでした。

こうして、ガヨヴニチェクはコルベ神父の命と引き換えに死の運命から逃れたのでした。
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いよいよ殉教のときが訪れる

フェノールの注射を打たれる

餓死刑に処されたコルベ神父とほか9人は、ある囚人棟の地下室に閉じ込められました。
最初に入れられた日から一週間、二週間と経ち、耐えきれなかった仲間たちが死んでいきます。

しかし、三週間を経過してもコルベ神父を含む4人は生き残ったままでした。
このまま生かしてはおけない……。
とうとうコルベ神父だけが17日間を生き延びましたが、ナチスはそれを許しません。

1941年8月14日、コルベ神父は自ら腕を差し出し、フェノールの注射で毒殺されました。
こうして47歳の生涯を閉じ、疲弊しきってもなお穏やかな顔で天に召されたのです。
その部屋はアウシュヴィッツ収容所博物館に今もなお現存し、博物館見学者だけではなくカトリック巡礼者が訪れる場所となっています。
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実は体がとても弱かった

原稿を執筆するコルベ神父(長崎)

コルベ神父は若い頃から体が丈夫なほうではなく、ローマの神学校時代やクラクフでの教授時代にも度々療養する必要がありました。
しかし高熱が出ても咳き込んでいても、たいていは月刊誌の原稿や著書を書き続けていたのです。

ある日、長崎でカトリックの日本人医師がコルベ神父を診察しにやって来ました。
医師は彼の姿を見てとても驚き、両方の肺が重い結核を患っていること、すぐにでも絶対安静が必要な状態であることを告げました。

すると信じられないことに、コルベ神父は10年も前から同じような症状だと言うのです。
そのような肺を持ちながら何年もこうして生きていられるというのは、医学的にも衝撃でした。

コルベ神父が殉教された8月14日、それは「聖母被昇天の日」の前日に当たります。
生前、聖職者となることを誓ったときにマリアという名を取るほどに聖母崇敬の強かったコルベ神父ですが、そんな彼は「聖母マリア被昇天の日に逝きたい」と漏らしたことがあったそうです。

これは単なる偶然だったのでしょうか。
また大変体の弱かったコルベ神父が病に倒れ伏せることもなく、苦しみながらも精力的に宣教活動ができたのは、アウシュヴィッツでの殉教が成されるためだったのではないでしょうか。

アウシュヴィッツでの過酷な労働でさえ耐え抜き、友のために命を捧げたコルベ神父。
コルベ神父の生命力や生きざまを見ていると、聖母マリアの御心を感じられずにはいられません
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長崎で訪れるべき関連の地

記事が長くなるので、別記事で紹介します。

長崎で訪れるべき聖コルベ神父の縁の地 3選+番外編

2019.04.14

 

他人を友のように愛すること

聖書を読むと見えてくる

愛する家族のためならまだしも、なぜ目に見えない神に対してそこまで誓えるのか。
信仰のために自らの命を犠牲にする、これは一般的に理解しがたい行為ではないでしょうか。

日本でも江戸時代にキリスト教が禁じられたとき、多くの老若男女が殉教の道を選びました。
1982年、その内の26名は殉教者としてカトリックの聖人に上げられています(聖人になる=列聖の条件の一つは殉教者であること)。

私がカトリック教徒になって気付いたことに、「地上は信徒における最大の喜びを味わうところではない」というものがあります。

キリスト教にとってのゴール、本当の意味での幸福は神のいる天において完成するもの。
だからこそ、深い信仰心を持ち続けている信徒は、窮地に迫っても地上における一時的な感情や迷いに縛られることはないのです。
地上での喜びと天における喜びを天秤にかけたとき、それが地上のほうに傾けば、天にいる神を心の底から愛しているとは言えないでしょう。

さて、新約聖書にこのような一文があります。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)

コルベ神父はアウシュヴィッツで殉教しましたが、それは神への誓いであると同時にこの聖書の言葉を実行したということです。
身代わりになってもらったガヨヴニチェクはたまたま収容所から解放されており、ほかの収容所に移されるも間もなく戦争が終わったため、奇跡的にそのまま生き延びることができました。

天寿を全うし、コルベ神父の分まで生きた彼は与えられた大きな愛を伝えることに生涯を捧げています(フランチシェック・ガヨヴニチェクは1995年、93歳でこの世を去りました)。
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今日のポーランド語

męczennik

męczennik(メンチェヌニク)は「殉教者」という意味の名詞です。
日本では滅多に耳にしない言葉ですが、ポーランドに来てからは毎週教会に通っていることもあり、頻繁に聞くようになりました。ミサでは殉教者に祈りを捧げることが度々あります。

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
この記事が役立ったら、イイネ!をお願いします。FBページではここには載せていないポーランド最新情報や注目の記事更新情報をお届けします ^^


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4 件のコメント

  • 日本国愛知県在住 服部 より:

    久しぶりの更新ですね。
    サイトの更新がしばらくされていなかったのでどうしたのか?と心配していました。実は現在Gliwiceに滞在中なのですが、お取り込み中かと思い連絡を控えていました。
    ガイドのライセンスの効果はいかがでしたでしょうか?お忙しいのはなによりです。
    又機会があれば連絡しますね。

    • Ayaka より:

      服部さん

      お久しぶりですね!
      さっそく最新記事に目を通していただき、ありがとうございます (^ ^)
      ツイッターは更新しているので生きていることは確認できると思いますが(笑)、仕事のことというより個人的な事情があってブログ更新を怠っていました…。
      しかし、書きたいことが山ほどあるので時間があるときに少しずつ編集しています。
      思うままに書ければいいのですが、記事の書き方や写真にもこだわりがあるので相変わらずスローペースなんです (>_<) 現在グリヴィツェに滞在されているとのこと、そういえば前回のコメントで春頃に来られると仰っていた気がしますね。 限られた滞在期間、今回も有意義に過ごされるよう願っております。 私は今週から仕事の合間にでも復活祭の準備をはじめますが、今年は暖かいのでなるべく外で過ごしたいと思っています (^ ^)/ では、おやすみなさい!

  • 中村はじめ より:

    アウシュビッツを訪れた時にあやかさんが、説明されていたコルベ神父の話をようやくアップされたのですね。その場で聞いただけでしたので、この記事で詳しいことがわかり、より素晴らしい方なんだなと改めて感心しましたしアウシュビッツでの体験が蘇りました。
    どうか元気に過ごされることをお祈りしています。

    • Ayaka より:

      中村さん

      コメントありがとうございます!
      一部のコメントは事情があって編集させていただきました m(_ _)m 触れてはいけない話題ではないのですが、ブログの方ではまだ黙っておこうと思いまして……。すみません。
      お気遣いいただきありがとうございます。

      本当に今さらコルベ神父について触れることになってしまいましたが、さっそく読んでいただいて嬉しいです!
      アウシュヴィッツには悲くて辛い話ばかりでなく、コルベ神父のような人がいたこともぜひ皆さまに知ってほしいと思っていました。

      中村さんとお会いした時は雪が降ったり、寒いポーランドでしたが、今ではすっかり最高気温15度前後となっています。
      日本も暖かいようで、元気に生まれたお孫さんと楽しく散歩できそうですね (^ ^)

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