必読!ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』の裏話



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ポーランドが所有する名画、ダ・ヴィンチの作品『白貂を抱く貴婦人』はクラクフ国立美術館に展示されています。

この名画、元々はチャルトリスキ公爵財団という、ポーランド・リトアニア連合王国の大貴族・チャルトリスキ家の末裔が運営する財団が所有していました。

2012年から2017年までの約5年間、クラクフのヴァヴェル城内に展示されていた『白貂を抱く貴婦人』。

実は元々チャルトリスキ美術館という旧市街内にある美術館に展示されていた絵画で、一時的にヴァヴェル城にて公開されていました。しかし、2017年5月から展示場所が変更となったのです!

ちなみに2016年末、ポーランド文化省は『白貂を抱く貴婦人』を含め、チャルトリスキ・コレクションをすべて買い取ったため、今は国が所有するお宝となっています。詳細はこちらをどうぞ。

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2017.01.03
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このページの目次
1. 『白貂を抱く貴婦人』概要
2. 肖像画の女性、チェチーリア
3. ポーランドに保護された名画

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『白貂を抱く貴婦人』概要

500年以上前に描かれた作品

かのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)が描いた『白貂を抱く貴婦人』。制作年は1489年です。

多くの人々は、ダ・ヴィンチと聞けば、『最後の晩餐』や『モナ・リザ』を思い浮かべることでしょう。他にも有名な作品がありますが、意外なことに彼が残した絵画は二十数点しかありません。

現存しているのは、内15点ほど。

彼の職業は画家というより多彩な才能を放つ自由人だっため、こんなにも作品が少ないのです。非常にもったいないですが、絵画の制作に専念できたのは晩年の2年だけだったと言われています。

だからこそ『白貂を抱く貴婦人』の価値が一層と高まるのであり、また、現存するダ・ヴィンチが描いた作品の中でも保存状態がよいため注目を浴びています。

ただ、この作品が描かれた当時のオリジナルの状態かと言うとそうではありません。しかし『モナ・リザ』や『ミラノの貴婦人の肖像』など、他の1人の女性を描いた肖像画3枚は『白貂を抱く貴婦人』以上に修正が加えられています。

今や、ポーランドという国家のお宝

さて、ポーランド文部省によると絵画は今後貸し出しは原則せず、ポーランド国内にのみ展示する方針だそうです。

実は2001年秋に京都市美術館に展示されたことがあり、それが最初で最後の来日と言われつつ、好評だったのか翌年には横浜美術館にも展示されました。

他、イタリアやアメリカでも展示されましたが、もう二度とこの絵画が国境を越えることはないかもしれません。

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肖像画の女性、チェチーリア

チェチーリアはどんな女性?

19世紀からはヨーロッパを転々とし、一時はあのナチス・ドイツに収奪されていたこともあったという絵画。

絵画が完成してからポーランドにやってくるまでの約311年間、いったいどこにあったのでしょうか。気になるところですが、その内の大部分を占める約250年はほとんど謎のままです。

まず、最初の所有者はこの絵のモデル本人、チェチーリア・ガッレラーニ(後のベルガミーニ夫人)であることが分かっています。彼女は1536年にこの世を去るまで絵画を所有していました。

制作年を元に計算すると、彼女が16〜17歳のときに描かれたのがこの『白貂を抱く貴婦人』になります。

チェチーリアはミラノの令嬢であり、名門ガッレラーニ家の娘でした。

父はフィレンツェやルッカの大使をも務めた大変名高い役人でしたが、チェチーリアが7歳のときに他界しています。

彼女は13歳のときにミラノ公国の君主イル・モーロ(正式にはルドヴィーコ・スフォルツァ)の愛妾(あいしょう)となりました。彼はチェチーリアの美貌と聡明で教養豊かな彼女を大変気に入り、愛人として可愛がっていたようです。

しかし、この絵が描かれてから2年も経たないうちにイル・モーロはフェラーラ公エルコレ1世・デステを正妻として迎えました。ただ、彼が本当に愛していたのはチェチーリアだったという噂が…。

その頃、チェチーリアはイル・モーロの子を宿していましたが、正妻と愛人同士がうまく生活を交わせるはずがありません。やがて宮廷を追い出され、ミラノの邸宅へ引っ越すことになりました。

彼女はチェーザレ・スフォルツァ・ヴィスコンティと名付けられた男児を出産したあと、すぐにルドヴィーコ・ベルガミーニと政略結婚。やがて、ベルガミーニ夫人と呼ばれるようになります。

さて、それからしばらくの年月が流れた1498年4月の出来事。

少女チェチーリアが描かれた肖像画(後の『白貂を抱く貴婦人』)の評判を聞きつけたイル・モーロの妻の姉、イザベッラ・デステは「ぜひとも、私に貴女様の描かれた絵画の貸し出しを…!」とチェチーリアに手紙を出します。

イザベッラは、その3日後にチェチーリアから快諾の手紙を受け取りました。

チェチーリアは純情な夫人だったようで、「10年も前に描かれた肖像画の自分と、今の私の容貌はかけ離れています。恥ずかしながら、もう別人のようですが…」と、絵画を貸し出しました。

しかし、ダ・ヴィンチの技量は十分に褒め讃えており、彼女自身がこの絵を非常に気に入っていたことが伺えます

彼女はラテン語を流暢に話し、また芸術を愛する文化人であったことから絵画のサロンを開くこともありました。

そして夫の死後、後に『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれる若き日の自身の肖像画を持ってクレモナ(イタリアの都市)に移り、静かに余生を過ごしたといいます。

 

ポーランドに保護された名画

クラクフのチャルトリスキ美術館

チェチーリアが亡くなった1536年のあと、「旅するチェチーリア」と呼ばれた『白貂を抱く貴婦人』はヨーロッパの各地をさまようことになります。

そんな名画がポーランドに渡ったきっかけは、1800年、ポーランド貴族アダム・イエジィ・チャルトリスキがイタリアで『白貂を抱く貴婦人』を購入したことにありました。ちなみに、誰から購入したのかは定かではありません。

彼は、ポーランド初の美術館を創設した偉人、母イザベラ・チャルトリスキにこの絵画をプレゼントしました。

当時のポーランドは隣国から不当に占領されており、地図からも姿を消されています。しかし、熱心な文化人であったイザベラは「ポーランドの文化を守らねば」とチャルトリスキ家の持つ財宝を保護し、絵画を一般公開しました。

そして1876年、『白貂を抱く貴婦人』はクラクフ旧市街にあるチャルトリスキ美術館に展示されます。

しかし、1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻の直前、チャルトリスキ家はポーランド東部のシェニャヴァという街に絵画を隠すことにしました。

ただ、そんな努力も報われず、『白貂を抱く貴婦人』はとうとうナチスに略奪されます。そして、ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館に展示され、ポーランド総督となった悪名高きハンス・フランクの手に渡ろうとしていました。

やっとポーランドに返還されたのは1952年のこと。1955年には長い年月を経てクラクフに戻ってきました。

それからはソ連の衛星国であったためにモスクワへ一時移動しますが、現在はこうしてポーランド文化省の所持する名画として大切に保護されています。

国家が正式に所有したからには、もう二度と絵画が不当に奪われることはないでしょう。そう願わずにいられません。

そんな『白貂を抱く貴婦人』をぜひともじっくりと鑑賞したいという方、クラクフ国立美術館へお越しください♪

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tajemnica

tajemnica(タイエムニツァ)は「秘密」という意味です。”tajemnica obrazu mona lisa”(タイエムニツァ  オブラズ  モナ  リザ)では、秘密というよりは「絵画『モナ・リザ』のミステリー」と訳した方がよいかもしれません!

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
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3 件のコメント

  • NF より:

    初めまして、こんにちは。

    あやかさんの記事をいつも楽しみにしています。貴重な情報をありがとうございます。
    ところで、唐突に申し訳ないのですが、ひとつお伺いさせてください。

    クラクフの町には、歴史的にロシアの影響は残っていますか。

    • Ayaka より:

      NFさん

      いつもブログをご愛読いただきありがとうございます。
      管理人の綾香です。

      私自身、ロシアには行ったことがなく、またロシアの影響と言われましてもピンと来ません。
      ただクラクフはオーストリア領でしたので、ロシアの影響はほぼないと思います。

  • NK より:

    先程の質問は、気持ちが先走ってしまい不躾すぎました。
    申し訳ありません。

    自分なりにもっと調べてみようと思います。
    これからも応援しております。

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