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ポーランドいち絵になる街 “カジミエシュ•ドルニ” その歴史と古城の魅力

カジミエシュ・ドルニ
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クラクフ市公認ガイドのカスプシュイック綾香(本名)です。2014年以降、ポーランド在住。ガイド・通訳業の傍ら、旅行や生活に欠かせないポーランド情報をお届け中!
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カジミエシュ・ドルニ

ポーランド語:Kazimierz Dolny
 カジミエシュ・ドルニ(正確には〜ドルヌィの発音が近い)はポーランドの東側にある小さな街。起源は11世紀にさかのぼり、やがてポーランド王国の重要な貿易都市となります。14世紀半ばの国王カジミエシュ3世が当時の首都クラクフ郊外にカジミエシュを建設すると、カジミエシュ・ドルニと呼ばれるようになりました。繁栄は16世紀末頃までつづき、それ以降は衰退するも19世紀末には観光地化。今日では芸術の町として知られます。

 

夫Piotr
一見、ワルシャワから日帰りで行けそうな感じだけど、あまり交通の便がよくないから注意。
あやか
ドルニは “上” という意味。クラクフのカジミエシュよりも上にあるからドルニなんだね。
ピャスト王朝の終幕 カジミエシュ3世大王
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カジミエシュ・ドルニの歴史

カジミエシュ・ドルニ
11世紀〜13世紀半ば
カジミエシュ・ドルニの起源

11世紀頃、のちのカジミエシュ・ドルニとなる周辺にヴィエトジュナ・グラという集落があった。1170年頃、カジミエシュ2世はカトリック修道女にいくつかの村を建設して与え、彼の名を取って「カジミエシュ」と名付けられた。カジミエシュという名が文献に初めて登場したのは1249年である。

カジミエシュ2世…在位1177〜1190年のポーランド大公。当時のポーランドには国王がおらず、大公が国家の君主であった。

14世紀
初期の要塞が完成する

ヴワディスワフ・ウオキェテクの治世、カジミエシュ2世の代に築かれた石造りの防御塔がパワーアップ。ヴィスワ川の交易路に沿って建てられ、初期の要塞となる。その後、カジミエシュ3世は外側にあった街を王立都市として定め、城や教会に資金提供。貿易都市としての発展に大いに貢献した。

ヴワディスワフ・ウオキェテク…在位1320〜1333年のポーランド国王。分裂していたポーランド国家を再統合した。死後、息子カジミエシュ3世が跡を継ぐ。
カジミエシュ3世…在位1333〜1370年。ピャスト朝最後の国王であり、ポーランドの司法制度を整え、93の新しい都市を建設した。

15世紀
王国の重要な貿易都市となる
カジミエシュ3世のユダヤ人に対する寛容もあり、15世紀初頭には一定のユダヤ人が住んでいた。バルト海から首都クラクフを結ぶヴィスワ川は穀物を輸送する交易ルートとなる。川を渡るための通行税も導入。ポーランドをまたいで東西南北へ向かう商人の交差点でもあり、町はますます活性化した。
16世紀
カジミエシュ・ドルニの黄金期
輸送や船製造を専門とするカジミエシュの有力商人が活躍し、西ヨーロッパで高い需要があった穀物、木材、ワイン、工芸品などの貿易とともに急速に町が繁栄する。ヴィスワ川の土手に何十もの穀倉が建てられたが、16世紀半ばに大火災が発生。町はルブリン・ルネサンスと呼ばれる様式で再建される。
17世紀半ば〜
スウェーデン軍による破壊

スウェーデンとの戦争が始まり、町は急激に衰退。破壊されたカジミエシュを再建するため、国王ヤン3世ソビエスキはカジミエシュのユダヤ人に商業特権を与えた。ユダヤ人商人によって少しの繁栄を取り戻すも18世紀初頭、疫病により住民の多くが死亡。城に隣接する丘に3つの十字架が建てられた。

スウェーデン軍はポーランドの主要都市を次々と攻め、破壊と略奪を繰り返した。人口も一気に減少。そこで国王ヤン3世ソビエスキ(在位1674〜1696年)はアルメニア人やユダヤ人をカジミエシュに移住させるが、かつての繁栄を取り戻すことはできなかった。

18世紀後半
ポーランド国家の衰退

隣国の政治干渉が著しくなった1770年頃、国王スタニスワフ・アウグストはカジミエシュのユダヤ人に平等権を与える。ユダヤ人が町の土地を購入し、そこに家を建て、自由に取引することを許可した。しかし1795年の第3次ポーランド分割の結果、ヴィスワ川の交易も途絶え、復興が遠のく。

スタニスワフ・アウグスト…ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王。在位1764〜1795年。ポーランドが消えるまで手を尽くすも国家を救うことはできなかった。

19世紀半ば〜
城は歴史的オブジェクトに

自由と独立を求めるポーランド人の蜂起が起こるも失敗し、皇帝により市の権利も剥奪された。以降、ポーランドの歴史家や考古学者による研究対象となり、またカジミエシュの建築や芸術に関心を持ったアーティストや歴史愛好家が集まるようになる。19世紀末以降は夏のリゾート地となった。

19世紀、ルブリンに住む大富豪がヴィスワ川を望む美しいカジミエシュに注目し、プールや別荘を建設。やがてポーランド有数の保養地となり、富裕層が多く訪れるようになった。

第一次世界大戦(1914)〜
アーティストが集う芸術の街へ

戦争ではロシア軍によってカジミエシュの大部分が破壊されたが、戦後、123年を経て独立したポーランド共和国のもとで復興が始まる。1923年夏、ワルシャワ美術学校の教授と学生がカジミエシュを訪れ、芸術の村というイメージを定着させた。今日までカジミエシュには多くの芸術家が訪れる。

古代遺跡のような塔と城にインスピレーションを受け、多くのアーティストがカジミエシュ・ドルニを舞台とした作品を書いている。

第二次世界大戦(1939)〜
再び戦争の憂き目に遭う
ドイツはカジミエシュにユダヤ人隔離区域ゲットーと強制労働収容所を設立。1942年3月のゲットー解体後、約3,000人のユダヤ人が収容所へ送られた。同時にドイツ軍によるポーランド人部隊の制圧により、約300人が殺害される。1944年以降、ソ連とドイツの戦いが激化すると町は破壊されていった。
第二次世界大戦の終戦後(1945)〜
戦後復興し、人気観光地に
ポーランドの歴史
 
 

カジミエシュ・ドルニの古城

カジミエシュ・ドルニ
1分で分かる古城の概要

 この小さな街のシンボルは小高い丘に建つ古城。初期の要塞は12世紀から存在し、城としての言及は1359年の文献に見られます。この頃、国王カジミエシュ3世の資金提供により高さ7mの城壁が建てられ、南側の上階は2つの居住スペースに繋がっており、四角い塔が隣接していました。
15世紀には北東に拡大され、礼拝堂が備わった塔が南西に増築されます。15世紀末から16世紀にかけては中庭が水平になり、上階の居住スペースは地下となり、建物全体が高くなりました。1509年から1644年までは中貴族のフィルレイ家が所有し、城の拡張は17世紀前半まで続いています。
 
 1655年、街はスウェーデン軍による破壊・略奪を受け、一時はスウェーデン王が城に住んでいました。18世紀に城の再建が行われ、1707年にはロシア皇帝のピョートル大帝が訪れています。しかし北方戦争(バルト海域の覇権をめぐって行われたスウェーデンとロシアとの戦争)により城はまたもや破壊され、ポーランド分割中に起こったロシアとの戦争で遺跡と化しました。19世紀以降は歴史的記念物として認識されはじめ、第一次世界大戦前には隣接する塔を含めた城の保護作業が実施されます。小高い丘に建つ白い古城とルブリンの建築要素は芸術家を魅了し、物語の舞台にもなりました。

カジミエシュ・ドルニ
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