マイダネク強制収容所2 そこで何が起こったのか



※コンテンツの無断転載禁止(リンク歓迎)

 

前回の記事の続きです。まだ読んでいない方は下の記事からどうぞ。

マイダネク強制収容所 囚人が収容所に到着した日

2016.08.24
.

大量殺戮が起きたガス室

ガス室 - 青い部分は毒ガスの変色

ガス室 – 青い部分は毒ガスの変色

こちらは、先ほどの一連の部屋があるバラックの、最後の方にあるガス室。

このガス室では実際にチクロンBが使われ、人々が亡くなりました。特にユダヤ人の女性や子ども、高齢者が犠牲になり、また1943年の春まではユダヤ人以外でも病気になったりやつれた男性がこのガス室に入れられたそうです。

マイダネクでは1942年9月から翌年9月の1年間、敷地内にあった合計4つのガス室が稼働していました。これらのガス室では一度に約2千人の人々を殺すことができたと言われています。

バラック41にあるもう1つのガス室

バラック41にある3つ目のガス室

こちらのガス室はさっきのガス室と比べて、ただの四角い部屋というイメージですが、あの青く変色した部分はチクロンBの過度の使用で見られるものです。

載せてきた画像はすべてバラック41にあるものですが、このバラックにはガス室がなんと3つもありました。それぞれのバラックが隣続きで設置してあり、最後のガス室が最も小さかったです。

ガス室で人々を殺す際はチクロンBの殺傷能力を高めるために、窓や天井からチクロンBを投げ入れた後は温風が室内に送られました。死んだ人々は部屋から引っ張りだされて外に置かれ、囚人によって焼却炉まで運ばれたそうです。

アウシュヴィッツのガス室

アウシュヴィッツのガス室

アウシュヴィッツで見ることのできるガス室は復元されたものですが、マイダネクでは当時のままだそう。しかし、個人的にはあの生臭さというか当時のようすがより鮮明に思い浮かぶのは、アウシュヴィッツの方かも知れません。

きっと実際に中に入ることができ、爪痕までもが間近で見れてしまうから?

でも、なんででしょう…。同じ悲劇の場所、それには比べるものもないはずなのに「あっちの方が…」と感じる自分には嫌悪感がさしました。記事にするために撮影しましたが、そうでもなければ撮影する雰囲気にはとてもなれません。

3つ目のガス室の後はもう出口になりますが、このバラック41の前には小さなスクエアがあり、そこは “Rosengarten” (バラの庭)と呼ばれていました。主にユダヤ人の選別が行われましたが、労働者として生かされた人はわずかでほとんどはガス室行きだったそうです。

 

無機質なバラックが続く

倉庫と労働をするためのバラック

倉庫と労働をするためのバラック

バラック41を出て少し先に進むと、倉庫や、囚人が労働をしていたバラックがしばらく続きます。また、SSの管理事務所もこの辺りにありました。

これらは収容者が寝ていたバラックから近い場所に建てられ、労働のバラックでは靴、縫い物、電気系など様々なジャンルに分かれていたようです。

また倉庫として、服はバラック48〜50、装置や工具はバラック51と52、囚人の所持品はバラック43と44で保管され、バラック43では新たに到着した囚人達の登録も行われました。

強制収容所で亡くなった一家の写真

強制収容所で亡くなった一家の写真

それぞれのバラックへは立て続けに入れるようになっていました。

どちらかというと資料館のような感じで実物展示などは一部を除いてありませんでしたが、第二次世界大戦中の歴史やゲットーのことが細かく説明してあります。英語が読める方は読んでしまうと止まらなくなるかもしれません。

私は時間の関係ですべて読むことは出来ませんでしたが、アウシュヴィッツでも同じような内容を読んだことがありました(常設展示ではない箇所)。

ただ、銀色のプレートの説明文はすべて読むことに。内1つの、「外部の者と連絡を取っていた囚人の話」を紹介することにします。文脈が乏しく意味が汲み取りづらい部分もあったので、そこは意味がつながりやすいように補いました。

ある生存者の証言

受け取った小包のレシートで、私たちが生きていることや今どこにいるかを家族に伝えることが出来た。だから毎週、小包が来るのが待ち遠しかった。(外部から何かを届けるために)カートを引っ張った男が到着した時は、夫や兄弟、友人のことを尋ねるチャンスでもあった。時々、一切れのパンと引き換えに秘密のメッセージを届けてもらうこともあった。

外部から届く小包は、栄養上のサポートよりもずっと価値のあるものだった。このおかげで、私たちは1人じゃないこと、家族がいること、(ポーランド人が運営する)社会福祉や(ポーランド人の)政治組織に守られていることを知ることが出来た。

青色がマイダネク、→は移送先

青色がマイダネク、→は移送先

拡大しないと見にくいのですが、この地図でマイダネクの囚人達はどこへ移送されたのかが一目で分かります。

殺されなかった囚人達は労働だけではなく、たらい回しのように他の収容所に移送されることがよくありました。最初こそ収容者の名前リストなどを移送先に送っていますが、だんだんこれが省略されて記録がなくなっていきます。

まだまだ続くバラック

まだまだ遠くに続くバラック

写真左手の長い建物は、バラック62。歴史資料が展示してある場所です。

ここまでのバラックでは英語が読めない場合、少し退屈に感じるかもしれません。しかし、一部のバラックでは収容者のベッドや靴が展示してあり、半音低い音がただ一定に重く鳴り響く “shrine” というバラックもありました。

マイダネクで亡くなった犠牲者を悼む

マイダネクで亡くなった犠牲者を悼む

ところで、マイダネクはアウシュヴィッツと決定的にちがう部分があります。

それは、歩きやすさ。

アウシュヴィッツでは本当に当時のままといった感じで、(おそらく)あえて当時の景観をくずさないように最低限の舗装しかされていません。しかし、マイダネクでは割と綺麗に舗装されているのであまり疲れは出ませんでした。

 

より博物館的なバラック62

チクロンBの缶とその中身

チクロンBの缶とその中身

今まで見て来たバラックとはまったく違って、こちらのバラック62では博物館っぽい展示方法となっていました。

しかし、文字量もかなりあるので全部を見ていたら1時間あっても足りないと思います。ただ、実物展示が多くあるのでそれだけでも当時のようすを少し思い浮かべることができるでしょう。

実際の囚人達のようすや収容所で行われていた実態については、私たちが想像するに難しいことだと思います。

私もここでの説明文は多すぎて一部しか読めなかったのですが、生活環境についての話はすべて読んでしまいました。

囚人達の生活環境

囚人は、収容所での劣悪な生活環境に悩まされていました。バラックには漏れ穴があったり、基本的な何かが欠けていました。囚人服は防寒には対応しておらず、少しでも暖かくしようと藁や紙を服と体の間に入れていると重い刑罰の対象となったそうです。

1943年の中頃まではほとんどの建物で汚水設備が使えなくなり、ノミやシラミ、トコジラミなどの虫がわいて囚人達は伝染病に苦しみます。それはやがてガス室以外の場所でも大量の死者を生む結果となり、時にはSSまでもがチフスを患いました。

毎日の日課は、慌ただしい食事と労働、外で行われる点呼でした。点呼は数時間も続くのがふつうで、更なる疲労を招いたといいます。夜に亡くなった者は、朝の点呼で確認できるよう外に運び出されました。囚人が収容所から出ることが出来たのは労働の時だけで、外にいる時は常に塔からSSに監視されている状態でした。……

,
しかし、こんな環境の中でもアウシュヴィッツ同様、地下組織として外部との接触を試みるグループもいたようです。

そういったチャンスが与えられるのは一部のポーランド人だったので、リーダーであるポーランド人の囚人達は他の国の者を積極的に助けました。

囚人達が使ったスプーンや鍋

囚人達が使ったスプーンや鍋

囚人のスーツケースのタグ

囚人のスーツケースのタグ

女性の囚人が来ていた囚人服

女性の囚人が来ていた囚人服

次の記事では、マイダネクに収容された人を写真付きで紹介します。

このようなテーマでは、簡単にまとめたくてもどうしても読者の皆さんに伝えたいことがいくつも出てきて、長い記事になりがちですね。もう6千字以上…。

マイダネク強制収容所3 尊い命が行きつく場所

2016.08.26

.
※今日のポーランド語はお休み

,

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
この記事が役立ったら、イイネ!をお願いします。FBページではここには載せていないポーランド最新情報や注目の記事更新情報をお届けします ^^


Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2016

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です