マイダネク強制収容所 囚人が収容所に到着した日



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この記事の投稿日は8月24日ですが、実際に行ったのは8月30日です。

私と夫は、27〜30日にかけて東ポーランドのルブリンという街に3泊4日の小旅行をしました。マイダネク強制収容所は、今回の旅でも特に印象深く酷いショックを与えられる場所でした。

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マイダネク強制収容所博物館の入り口

マイダネク強制収容所博物館の入り口

マイダネク強制収容所の正式名称は、ルブリン強制収容所です。

収容所の近隣の村マイダンの名前をとって、ポーランド語風にマイダネク強制収容所と呼ばれるようになりました。

この強制収容所は、1941年10月から44年7月にかけてナチス・ドイツが管理し、欧州各国の15万人以上にも及ぶ人々がここに連行されたと言われています。そして、その内の約8万人はこの地で尊き命を落としました。

収容された人々はユダヤ人を除くと、ポーランド人、当時はソビエトだったベラルーシやウクライナからの収容者が過半数を占めています。最初は男性だけがここに連れてこられましたが、後に女性や子どもと老若男女関係なく多くの人々が収容されるようになりました。

しかし、ドイツの敗北が目に見えて来た1944年春、ナチスはマイダネク強制収容所を解体することにします。

解体された後のマイダネク

解体された後のマイダネク

解体時、囚人は他の収容所に移送されるかガス室で大量殺戮されるのが決まりでした。マイダネクでの最後の移送は1944年7月22日。翌日には赤軍がこの一帯にあったマイダン村に入り、その次にポーランド軍が入りました。

それと同時に、ルブリン市民や近郊に住んでいた者がこの収容所の有様を見ようと訪れますが、あまりの悲惨な光景にショックを隠せなかったそうです。

ここからもいかに、SSが周りの住民に悟られないようこそっりと、そして大胆にユダヤ人やポーランド人の迫害を繰り返していたことが分かりますよね…。

マイダネクのモニュメント「門」

マイダネクのモニュメント「門」

以後、この強制収容所は決して、歴史の闇に葬ってはいけない場所として1944年10月、博物館となりました。

アウシュヴィッツやドイツにあるダッハウなど、現在は博物館として公開されている強制収容所は他にも多くありますが、このマイダネク強制収容所がその中でも最も古い博物館と言われています。

そして2014年の秋、この博物館は70周年を迎えました。

ここで亡くなった欧州各国の1万7千人のユダヤ人、数万人以上の規模で殺害されたポーランド人やポーランド系ユダヤ人、何よりもドイツが近代に犯した大きな過ちを決して忘れないよう、この博物館は毎日開放されています。

 

それでは、見学スタート

あまりの広さに見学前から圧倒される

あまりの広さに見学前から圧倒される

このマイダネク強制収容所跡に入って、まず驚くのはその広さ。

現在のマイダネクには当時のバラックはすべて残っておらず、ぽっかりした空間が目立ちますが、いかにナチスがこの収容所を巨大なものにさせようとしていたのかが容易に想像できます。

マイダネクは270ヘクタール(アウシュヴィッツとビルケナウを合わせても、まだずっと広い)もの敷地があり、3つのセクションに分かれていました。

1つ目はベッドやトイレがある囚人のための収容施設があるエリア、2つ目は農園や倉庫などがあり囚人が働く労働エリア、最後にSSのための住居や管理事務所などの施設があるエリアです。

 

収容所に到着した囚人

収容所に到着したユダヤ人女性

収容所に到着したユダヤ人女性達

狭い輸送列車に押し込まれた囚人達がマイダネクに到着すると、敷地の中にある小高い丘に降ろされました。

そこからは広大な収容所を囲む有刺鉄線、そこら中に建ち並ぶバラック、人々が動き回る様子が見下ろせたそうです。

生存者の1人はその時に感じたことを、こう言っています。「人々は生きているの?ここで働いているの?」ー

ここに連れて来られた者は皆「今、住んでいる場所から移動するだけだ」とただそう言われ、抵抗することも許されず、数十時間、数日間も飲まず食わずの状態で列車に詰め込まれ、そして最終的に収容所に降ろされたのです。

誰もがわずかに抱いていた希望を一瞬にして失ったことでしょう。

 

最初から残酷すぎる収容所

私たちが最初に入ったバラック

私たちが最初に入ったバラック

ここは、労働者と選別された囚人がシャワーを浴び、着替えるまでの場所が一連になったバラックです。

年老いた者や病気の者は、特に何があるわけでもなく、何時間も次の命令があるまで外で立たされました。そして最終的にはガス室に入れられ、チクロンBが投げ入れられると5分も経たない内に悲鳴は聞こえなくなったそうです。

これが本当に人間のすることでしょうか。夫は「最悪だ」「考えられない」とずっと言っていました。

ヒトラーはある演説で「全世界が恐れる青少年達を育て上げよう。私は暴力をふるい傲慢かつ強固で残酷な若者を望んでいる」と少年の前で述べています。

そして歓声をあげる子どもたち…。悪夢としか言いようがありません。

シャワー室へと続く通路

シャワー室の前の服を脱ぐ部屋

労働者とされた囚人は、髪をここで刈り落とされ、その髪はドイツの軍事費用に充てるため布製品を加工する会社に売られました。マイダネクの管理事務所で見つかった記録によると、730キロの髪が売られたと書いてあったそうです。

実際に加工されたものは、アウシュヴィッツで見ることが出来ます。

ある生存者の回想

私たちは所持品と服を抱え、空っぽのバラックに押し込まれた。そして裸のままで立たされ、次の命令を待つ。やがて二重の扉が開くと鳥肌が立った。彼らは、700人の囚人の名前を読み上げ、テーブルを用意して囚人番号の登録作業を行った。それが終わると、100人のグループに分かれてシャワーを浴びるよう命令され、凍ったように冷たい地面を通り、100メートル先にあるシャワー室に向かう。そこで私たちは髪や髭を刈り落とされ、体中切られた毛でまみれた。

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囚人達はシャワー室で体を洗い、消毒をすることが義務づけられていました。

これは表向きには衛生管理のためですが、結局はSSが囚人達を汚物扱いしていたからに過ぎないと思います。

解説を読んでいるだけでゾッとする

見るだけでもゾッとする、消毒の浴槽

シャワーヘッドが天井にあります

シャワーヘッドが天井にあります

シャワーを浴びた後は上の写真の浴槽に入らされ、消毒液に浸かったそう。

囚人が収容されている間、下着が取り替えられるということは滅多になく、数週間に1回だけシャワーを浴びたり下着を替えることができたようです。このことからも衛生管理がきちんとなされていなかったのは言うまでもありません。

ちなみに写真の場所は男性用で、女性達はこの隣のバラック42でシャワーと消毒をすることになっていました。

しかもシャワーといっても、ただ石けんで体を洗って水を浴びるだけではなかったようです。生存者の1人はそのシャワーのようすをこう振り返っています。

ある生存者の証言

彼らは私たちの髪をハサミで切り、明るい青色の細長い薄板が張り付けられた汚い部屋に押し込んだ。天井からは数十のシャワーヘッドがぶら下がっていて、窓の下には長いテーブルがあった。ドアの隣には待ち部屋があり、そこにはコンクリートの巨大な浴槽が並び、石炭酸(フェノール)の入った水で満たされていた。

すると突然、氷のように冷たい水がシャワーヘッドから流れた。人々はそのあまりの冷たさに悲鳴をあげていたが、数秒後には沸騰したお湯が湯気といっしょに噴出された。もう逃げたかったが、逃げる場所などどこにもない。シャワーが終わると、他の「浴室」に連れて行かれた。ここで石炭酸に体を浸すのだ。SSはこれを皮肉るように、消毒の浴槽と呼んでいた。

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青はチクロンBが変色した箇所

青はチクロンBが変色した箇所

こちらは着替える部屋の写真です。

着替えの部屋であると同時に囚人服の消毒をする場所としても使われました。消毒にはチクロンBが使われ、効能をより発揮するように熱した空気を壁に張ったパイプで充満させていたそうです。

消毒された服はまた違う部屋にしばらく保管されました。その部屋は現在、チクロンBの缶が展示してあります。

マイダネク強制収容所2 そこで何が起こったのか

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※今日のポーランド語はお休み

 

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あやか
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