首都ワルシャワにかけたポーランド人の情熱



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ワルシャワとかポーランドの歴史を語りだすと止まらなくなるのですが、今日のところは適度にブレーキをかけながら解説していきたいと思います。

なんて言いながら、
長くなったらごめんなさい

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なぜワルシャワが首都に?

現在のワルシャワ

現在のワルシャワ

ワルシャワという街が初めて文献に表れたのは1313年のこと。

その前のポーランドの首都は500年以上にもわたってクラクフに置かれており、ワルシャワが首都の移転先となったのは1611年の出来事でした。

ポーランドで最も歴史に翻弄された街 クラクフ

2015.12.08
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ポーランド王国によって開拓されるまでのワルシャワは、ヴィスワ川での漁業で生計を立てているような素朴な村で人口はたったの数千人。しかし13世紀末には公爵のための城郭が建設され、これが後の王宮となります。

photo: flickr 王宮 by Arian Zwegers

photo: flickr 王宮 by Arian Zwegers

15世紀の人口は4,500人程度。そんな村が首都となった理由とは…?

最初のきっかけは、やはり王宮の基となった城郭にありました。それに伴って1413年、ワルシャワの位置するマゾフシェ地方の中心がチェルスク(今も現存するのどかな村)からワルシャワへと移され、大聖堂も建設されます。しかし、まだこの時点ではある地方のちょっと栄え始めたくらいの場所。

ワルシャワに大きな転機が訪れるのは、まだまだ先の話です。

 

首都クラクフでの火難

その出来事は1595年。

代々の王が居住していた首都クラクフのヴァヴェル城で大規模な火災が起こりました。これにはやむを得ず、他の地へ移ることを余儀なくされた当時の国王ジグムント3世。そこで城郭のあったワルシャワが、火災から翌年の1596年に遷都されることとなったのです。

ただし彼が実際にワルシャワに居住したのは1611年以降なので、正式な首都として登録されたのは後者の1611年だといわれています。

ジグムント3世

ジグムント3世

元々国王ジグムント3世は、ポーランド王でありながらもスウェーデンの王位を狙っており(最終的にはスウェーデン王位を継承)、ポーランド南部に位置するクラクフは政治上、立地的に不便でした。そんな時にヴァヴェル城が火難に遇ったため、国王はスウェーデンに近いワルシャワを選んだというわけです。

でも正直なところ、スウェーデンにより近く、貿易で非常に栄えていたグダニスクが首都のイメージにピッタリ。

しかし当時のポーランド王国はドイツ騎士団との兼ね合いもあり、それならばと手があまりつけられていない状態で開拓しやすく、かつ城郭のあったワルシャワが選ばれたのでしょう。

グダニスクとドイツ騎士団に見る苦い歴史

2016.01.13

 

絶頂期を迎えるワルシャワ

16世紀のワルシャワ

16世紀のワルシャワ

こういった経緯があり、めでたく首都となったワルシャワ。

16世紀の人口は1万人を超えており、首都となってからはさらに爆発的に人口が増えています。ちなみにこの時に建設された新市街が、現在復元後の姿として見ることのできる旧市街。

そして1764〜72年のポーランドは、ポーランド・リトアニア共和国として史上最期の黄金期を迎えました。

この時のワルシャワは、”北のパリ” と言われるまでに急速な文化・経済発展を遂げています。当時活躍した重要な人物に、タデウシュ・コシチュシュコという人物がいますが、彼についてはまた違う機会に話すことにしましょう。

タデウシュの銅像はヨハネ・パウロ2世、とまではいきませんが、やはりポーランドのヒーローとして至るところで見ることができます。

 

第三次ポーランド分割

ポーランド分割

ポーランド分割

しかし、この黄金期の背後には既にポーランドの全領土を奪おうと企んでいたロシア、プロイセン、オーストリアの影が近づいていました。

隙をつかれたワルシャワは第三次ポーランド分割でプロイセン領になり、1795年、ワルシャワもさることながらポーランドはこの時から123年間、完全に地図から姿を消すことになりま す。

1807年にはナポレオンがワルシャワ公国(音楽家ショパンが生まれたのはこの時)を建設し、ポーランド人の誰もが国家独立を夢に見ましたが、それも結局叶うことはありませんでした。

そしてもう、ここからのポーランドの状況はますます悪化していくばかり。

そもそもポーランド自体が存在していなかったのですが、ショパンも含め、ポーランド人皆がポーランドの復活を願っていました。他国に領土を奪われたポーランド人はポーランド語を習うことも出来ず、この間に文化が発達することがなかったのは言うまでもありません。

むしろ今、ポーランド語が当時とあまり変わらぬ体系のまま、存在しているのは実に奇跡的なことなのです。

補足説明
ポーランド分割についてはまたいずれ記事を書こうと思うのですが、今のところ、この説明はウィキペディアの「ポーランド分割」に任せます…。

 

愛国心にかけた戦い

19世紀のワルシャワ

19世紀のワルシャワ

しかし水面下でポーランド人は、ワルシャワからのポーランド独立を決して諦めることはありませんでした。

その願いがついに叶ったのは第一次世界大戦終戦の1918年。

この年、ドイツとオーストリアが敗戦国となると、ポーランドの独立がパリ講和会議によって承認され、実に100年以上もの時を経て再びワルシャワが首都として栄えるようになります。

ただしその喜びが長く続くことはなく、次にポーランドを悲劇に陥れたのは1939年の第二次世界大戦でした。

最大の敵はナチス・ドイツ。

ワルシャワに立つヒトラー

ワルシャワに立つヒトラー

ユダヤ人迫害で知られるナチス・ドイツの残虐行為ですが、実はポーランド人も迫害の対象となっており、劣等人種として何十万、何百万人ものポーランド人がナチス・ドイツからの攻撃や虐殺、拷問によって亡くなっています。

ポーランドは不公平な主張と攻撃を続けるドイツ軍を決して見過ごすわけにはいかず、死を顧みず、何度も自国を守るための抵抗を試みました。

 

その戦いの1つがワルシャワ蜂起。続編として次の記事をお読みください。

ワルシャワ蜂起 〜ドイツに立ち向かった63日間〜

2016.03.10

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
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