なぜキリスト教徒はイエスを信じるのか 後編



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こちらの記事は前の記事(キリスト教の概要)の続編として書いています。

なぜキリスト教徒はイエスを信じるのか 前編

2015.10.30

 

このページの目次
1. 歴史的な書物、聖書
2. 聖書に記された預言
3. イエスに関する預言
4. 誰よりも神を愛すること
5. イエスはなぜ誕生したか
6. 教会組織は悪なのか?

 

歴史的な書物、聖書

ここまでは聖書における人類の始まりとその罪について説明してきました。

なんともよくできた神話のような話でまだ信じられる要素がないと感じる方もいるかもしれません。そこで次に、聖書の本質と意味についてお話しします。

 

聖書は歴史書でもある

聖書は本にすると2千〜3千ページを超える圧倒的な量となります。

本来はこれ以上にもっとたくさんの書記や手紙があったのですが、その中から特に重要で信頼できるものが教典として厳選され、今日の聖書となりました。

この膨大な記録の中には古代に実在したといわれる多くの王や国、土地、戦の名が記されており、実際に史実として広く認識されている書記もある(バビロン捕囚、アッシリアなど)ほどです。

ただ残念ながら、起源があまりにも古いため原本はまだ見つかっておらず、すべて人がまとめたという特性上、一貫性がない部分や文化的な影響を受けた記述(特に旧約聖書)、翻訳の違いが見られるのはやむを得ません。

最古の聖書写本の一部

最古の聖書写本の一部

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さて、内容はともかく「聖書」という名の書物は誰もが聞いたことがあるかと思いますが、この聖書は旧約聖書と新約聖書の2つの書物から成ります。
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旧約聖書
紀元前1400年から約1000年の間にまとめられた神との契約や預言、歴史が書かれた39巻の書物
新約聖書
イエスが誕生し、天に召された後の1世紀中頃から2世紀の始まりにかけて書かれた27巻の書物

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全66巻ともなれば相当なものですが、12巻の差以上に旧約聖書の方が書物としての重みがあります。

「カトリックは旧約聖書、プロテスタントは新訳聖書を読む」と思っている方もいるようですが、キリスト教では教派に関係なく旧・新約聖書の両方を読む、と覚えておいてください。

 

旧約聖書と新約聖書の違い

旧・新約聖書の境はイエスの誕生。

新約聖書ではイエスが主を通して説いた教えや預言、イエスの死後弟子たちが教会や信者に宛てた手紙などをまとめたものとなっており、これらはすべて神との新しい契約を示したものです。

対して旧約は古い契約となりますが、旧約聖書の内容はかなり過激的

キリスト教を学ぼうとする者は旧約聖書から入ってはいけないとよく言われるのですが、これは旧約聖書に書かれている神があまりにも厳格だから。

私も最初はびっくりしました。

キリスト教徒は新約聖書を中心に読む、ということは大事なポイントです。

 

聖書に記された預言

旧約聖書と新約聖書は同じ聖書ですが、分けて考えねばなりません。

 

神が契約を改めた理由

新しい契約が必要となったのは、かんたんに言うと時代の変化によるもの。

紀元前が終わりに近づく頃には、最初に神が人を創造した時代と比べて環境が随分と変わっていました。

人は増え、また彼らには良い意味でも悪い意味でも知恵がついたからです。

例えば旧約聖書では一夫多妻制となっていますが、新約聖書からは認められていません。一夫多妻制が許されたのは単純に人の数を増やすためであったのと男性と女性の人口比率の差にありましたが、今ではもうこの問題は解決されたので必要がなくなったのです。

それに加えてキリスト教では、本来の意味を持たない肉欲(性欲)は最も重い罪の一つと定められており、むやみに性行為をすることは一切認めません。

 

新約聖書の本質

そしてここが一番重要なところ。

旧約聖書では、私たちの罪を担う救世主(イエス)が後に誕生することが度々預言されています。というより、旧約聖書はその救世主が現れることを前提として書かれた書物と言ってもいいでしょう。

そういう意味では新しい契約が結ばれることは必然だったと考えられます。
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新約聖書は旧約聖書の預言が成就された結果まとめられたものであり、イエス自身もこの旧約聖書に書かれていることを引用して人々に教えを説いていました。

この2つの書物はいずれも神の啓示であり、非常に関係が深いのです。
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そのためミサや礼拝では旧約聖書の一部も読み上げられます。キリスト教徒が旧約聖書をほとんど無視しているということはありません。

確かに旧約聖書の主は一見恐ろしいような印象を持つのですが、救世主としてイエスをこの世に送ったのもまた同一の主であり、こういった事情を知らずに旧約聖書だけを先に読んでしまうからショックを受けてしまうのです。

補足事項
旧約聖書と新約聖書は、それぞれ古い約束、新しい約束と見る人々もいます。また、この契約や約束といった捉え方はあくまでキリスト教徒から見たもので本来の聖書に新旧の区切りがあったわけではありません。
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イエスに関する預言

先ほども述べたように旧約聖書では、イエスが救世主として後に誕生することが預言されていました。

千年も前から300以上にもわたって、です。しかもこの救世主に関する預言はイエスの生涯と一致していました。

 

最も代表的な預言

旧約聖書 イザヤ書7-14 
それ故、主ご自身が、あなたたちに徴を与えられる。見よ、おとめ(処女)が身籠って男の子を産み、その名をインヌマエルと呼ぶ。

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イエスは処女マリアから生まれたのでこの預言は成就されました。

またインヌマエルという名についてですが、これは聖書の中でもイエスの呼び方が複数あり、その内の1つがインヌマエルというだけ。イエスに「(神は)救い」といった意味があるように、インヌマエルにも「神は私たちとともにおられる」という意味があります。

そしてこの「処女が身籠る」といった部分は、とても人の知恵だけで書けることではないでしょう。

預言者イザヤも「自分は何を書いているんだ」と思いながら神の啓示を書き留めていたに違いありません。

 

奇妙なほどに合致する預言

この預言の他にもイエスがベツヘレムで生まれ、ナザレ人と呼ばれることもイエスがどのようにして亡くなり復活するか、命を絶たれる日まですべて旧約聖書には預言として書いてあります。

マリアがイエスを身籠ったのは戯言とも捉えれるかもしれませんが、イエスの生涯を見る限りこれらの預言は彼の運命と奇妙なほどに合致しており、それを否定する方が無理があるでしょう

 

これらの事実だけでもキリスト教徒がイエスを信じる理由としては十分。

すべてが預言通りに起こってきたのだから信じざるを得ないのです。旧約聖書にある預言についてはダニエル七十週の預言という有名なものがあるので、もし興味があれば調べてみてください。

 

誰よりも神を愛すること

キリスト教では「他の誰よりも神を愛せよ」と教えています。

 

神は人を欺かない

マタイ10-37 
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。

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この聖書の箇所を非キリスト教徒が読むと、なんとも自己愛の強い神だと感じられるかもしれません。

この教えだけでキリスト教に興味がある人でも一歩引くことを考えてしまいそうです。一体どうやったら”姿も形も見えないような神” を他の誰よりも愛することができるのでしょうか。
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それを理解するにはまず、神は人ではないことに気付かなければいけません。

神への愛と人への愛を対比させることは「愛犬よりも君を愛している」と言うのと同じくらいの矛盾があるのです。もちろんこれは極端な例ですが。

しかしなにも「家族や友人を愛するな」ということではありません。むしろ愛すべきだと神は教えています。

それでも神を最も愛さなければいけない理由は、どんなに夫や妻、家族を愛していても、どんなに友人を信頼していても裏切られることがあるからです。

愛する夫から犯罪行為の加担を促され、自分も加害者になることをためらわない人だっています。子が母を愛していたとしても、母は子にもはや愛情などなく不倫相手を愛していることがあります。

人が人を欺き、裏切るのです。
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しかし、神は決して人を欺きません。

 

それならば神を愛するべき

ヨハネ3-16 
実に、神は独り子(イエス)をお与えになるほど、この世を愛された。

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万が一愛する人に欺かれるようなことがあった時、信じないといけないのは本当に目の前の愛する人でしょうか。

それならば、最初から神を最も愛していると認めることができるのがキリスト教徒のあるべき姿勢と言えるでしょう。

 

イエスはなぜ誕生したか

さあ、いよいよ最後にキリスト教の核心に迫ります。では、イエスはなぜこの世に生まれてきたのでしょうか。

 

イエスが現れた理由

それは、旧約聖書の始め(創世記)にもあるようにアダムとイブが犯した最初の罪を原罪とし、人はその時からずっと罪を繰り返してきたからであり、そういった罪人は罰せられるべきだからです。

しかし神は御子となるイエスに人の罪を購(あがな)いさせ、このイエスを信じる者を救うことにしました。

言わばイエスは人々の罪をすべて背負い込むためだけに生まれ、殺された、私たちの身代わりだったのです。

神は、御子をこの世に送るほどに私たちを愛され、罪を犯したとしても悔い改めることによって赦(ゆる)しを得ることができるようにしました。

 

イエスと死後の復活

またイエスは、亡くなった3日後に復活し、人々の目の前に現れています。

そして40日間にもわたって再度神の国の教えを人々に説きました。これは、死後の復活を証明するためです。

復活したイエス

復活したイエス

イエスは十字架につけられる前、自身の再臨を弟子たちに預言しました。

これはまだ実現していない預言です。

その内容は、イエスが再臨する前には迫害や自然災害が立て続けに起こり、やがては地球規模の大災難が訪れるというもの。これが人類の終末…。

もちろんその先には永遠の幸福である楽園が待っているのですが、それにしても恐れなしに待ち構えずにはいられません。しかしこれが神の存在を蔑ろにした人類の見返りということでしょう。

 

その時、誰が救われるか

ただこの大災難の中で、生きている者や復活した者がどういった形で救われるのかについてはキリスト教の教派によってさまざまな解釈があるようです。

一般的には「キリスト教徒のみが天国へ行く」と主張されているようですが、これは一部プロテスタント教会の見解。

実際のところ、最後の審判を下すのは私たちではなく神です。

どういった選別が行われるかは私たちの気にするところではありません。

とは言っても、いったい誰が救われるのかは気になるところ。その答えはこちらの関連記事をお読みください。

宗教を信仰する理由、キリスト教のいう死後

2015.10.29
補足説明
仏教の影響もあって輪廻転成などを自然に受け入れている多くの日本人にとって、死者が生き返るというのは噓のような話。しかしキリスト教においては、死者は来(きた)る 日に生前の意識を伴ったまま復活し、天国かそれとも地獄行きかの裁き(最後の審判)を受けることになっています。この復活の概念があるためにキリスト教徒の多い欧米では火葬は基本的にされません。もちろんゾンビ映画のように腐乱した体を持って復活するとは思っていませんが、象徴的な意味でも死者は生前の姿のままで埋葬されるのです。

 

教会組織は悪なのか?

随分と長い記事になりましたが、ここからは補足として書きます。

 

キリスト教は利用されていた

キリスト教カトリックに限定して話しますが、過去の迫害や戦争もあってかカトリック教会を批判する人が世界中に大勢います。単に嫌いというよりは憎悪を抱いているようにしか見えません。

カトリックの悪事さえなければ世界は平和だった」なんていう発言は、耳にタコができるほど聞いてきました。

しかし、これらの事実と愛と平和について説いている聖書の教えはまったく異なるもの。そして、過去の迫害や戦争、免罪符の発行などについてはカトリック教会もすべて過ちだったと認めています。

当時ヨーロッパで最も権力の大きかったカトリック教会だけに、政治的な理由や金儲けに利用されていたことも否めませんが…。キリスト教を最大限に利用することで国家の統一を図った神聖ローマ帝国なんていうのは、まさにそう。

当然、それに加担したカトリック教会も間違いなく悪でした。

 

悪いのは神なのか、人なのか

ただ私が思うのは、カトリック教会が起こした過去の災いは神によってではなく人によって起きたことなので、これを理由にキリスト教そのものを根強く批判するのは筋違いではないでしょうか。

また、こういった歴史的背景を理由に現代のキリスト教徒までをも非難するのはあんまりです。過去の悪事のために「だからキリスト教は信頼できない」と言いたい気持ちは分かるのですが、現代のキリスト教徒が行ってきた平和的な活動の多くには目も向けられないというのは悲しいことだとしか言えません。

そして残念ながら、カトリック教会についてあることないことを書いているサイトも多く見受けられます。

 

ローマ法王が児童虐殺?

「ブリュッセルの国際慣習法裁判所(あるいは国際コモンロー裁判所またはITCCS)がベネディクト前ローマ教皇とエリザベス女王に、5万人の児童大虐殺をした件で有罪判決を下した」
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これはもちろん、デマです。

この “国際慣習法裁判所” というのは、つまるところ反教会組織。

組織と言うべきなんでしょうか、実際のところ国際慣習法裁判所はケビン・アネットというカナダに住む男性のブログにつくられた架空裁判所に過ぎません。

その男は教会とイギリスを心から憎んでおり、自身の地位を利用して賄賂のために噓の情報を流し出す始末。

架空裁判所どころかカナダをカナタ共和国と呼び、まるで自分が国家の権力者になったかのように振る舞う姿には、もう呆れてものも言えません。

そんな彼のことですから、この民族大虐殺も有罪判決も提示している証拠もすべて彼の作り話。大虐殺されたという民族と手を組んでいることも分かっています。これらは、英語で彼の名前を調べてもらえればすぐ分かること。

しかし、日本語での正しい情報は非常に限られているのが現状です。

きっと多くの人がこのデマを信じたまま「カトリックはとんでもない組織だ」と誤解していることでしょう。

 

カトリックが嫌われる理由

なぜこんなデマが流されるほどにカトリックは嫌われているのでしょうか。

それは、同性愛・両性愛や中絶を反対しているからです。

カトリック聖職者の同性愛に関してもあることないことがよく書かれますが、それも同性愛を認めないことによる反抗から来るものでしょう。

ポーランドにいるとよく分かるのですが、世界は皆さんの想像以上にメディアで汚染されています

カトリック聖職者にも同性愛者がいる/いたのは事実でしょうが(彼らは聖職者でも人なので)、実際のところ “同性愛者” としてレッテルを貼られた聖職者の中には、完全に人々の誤解によってそのように非難された人がいたことも分かっており、またそれが誤解だったとしてもメディアは取り上げたことが間違いであったとは一切伝えません。

最近では、聖職者が男の子を抱きしめただけで「あの聖職者は少年に性的虐待をしている」と言われるのですから、本当にひどい世の中です。

 

同性愛主張者の問題

私はカトリック聖職者にも道理から外れた人がいることに否定はまったくしませんが、世界中にいる “同性愛を認めさせようとする人々の主張” はいきすぎではないのかと懸念しています。
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同性の両親を持つ子どもを考慮して「パパ、ママ/彼、彼女」と言うことを禁じるイギリスやスウェーデンの学校、正式な書類から「父/母」という表記を無くした欧米の市町村、絵本から「お父さん/お母さん」という表現を排除しようとする運動。冗談のような本当の話。

今はこんなことが受け入れられる世界ですから、カトリックが非難を浴びるのはどうしても避けられません。

カトリック教会も同性愛者を真っ向に批判しているわけではないのですが、そう言うと「カトリックは同性愛を認めた!」というメディアもいるので、この問題に関する発言はカトリックにおいても非常にデリケートなところ。

伝統的な教派なので「理由はどうであれ、よくないことはよくない」とハッキリ言うこともありますが、結局のところ、このような考えは神からのお告げである聖書に由来するものです。

教会自体にその是非を問われてもどうしようもありません。

 

私からのお願い

これらを踏まえてひとつ、
私から皆さんにお願いがあります。

もしあなたが教会の信じ難い噂を聞いたなら、悪だと判断する前にまずは懐疑的な態度で受けとめてください。

それらが事実とは限らないからです。

 

参考ホームページ
キリスト教についてとても興味深い事実を知ることの出来るホームページ、ウェブページを紹介します。

Y-JESUS 日本(日本語翻訳)
ファティマの聖母
フランシスコ教皇が行った事柄

 

この記事のまとめ

予想以上に長い記事となってしまいました。前編にも書いたよう、布教を目的として書いたのではなく事実を知ってほしいという気持ちで書いています。

私はカトリック教徒になる前、キリスト教についてはネットの情報もかなり頼りにしていました。そこで分かったのは教会や信者以外が書いている情報はあまりにもデタラメが多いという現状。

もちろん正しいものもありますが、一時は私も彼らの思い込みや間違った知識を真に受けてしまったほどです。

私は「イエスを信じて!」と周りに主張するタイプではありませんが、せめてキリスト教を誤解している人が一人でも減ることを願ってやみません…。

あなたに神のご加護がありますように。

 

最後までお読み頂きありがとうございます☆
あやか
この記事が役立ったら、イイネ!をお願いします。FBページではここには載せていないポーランド最新情報や注目の記事更新情報をお届けします ^^


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2 件のコメント

  • 虫生 孝 より:

    悪意に満ちた噂やデマを、無批判に受け売れてしまう人たちが、私も含めて多いのでしょうか、もっと勉強したいのですが、わかりやすいカテキズムの本が容易に入手出来ればいいのですが(最近、カトリックに行きだしたので、マリア、聖人の崇敬と崇拝、ロザリオの祈りを受け入れることができません)

    • Ayaka より:

      虫生さん

      はじめまして。
      当ブログ管理人の綾香です。

      私も最初は恥ずかしながら、そのようなデマに惑わされました。今思うと失礼な話ですが、カトリックである夫に有る事無い事の真偽を確かめては真剣に話し合い、彼も真面目に取り合ってくれたのは感謝です。

      私自身は経験なカトリック教徒と呼ぶにはほど遠いかもしれませんが(23年間共にした習慣や考えを断ち切るのはやはり簡単ではありません…)、イエス・キリストは信じていますし、他のキリスト教の教義ではなくカトリック教会で学べたことはよかったと思っています。
      カテキズムの本はamazonでいくつかの本のレビューを見ることができるので、その中でご自身に合うと思ったものをお選びになるのがよいでしょう。私も結局のところ、amazonで購入したものをポーランドに取り寄せて学びました。

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